<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383</id><updated>2012-01-07T20:59:03.464+09:00</updated><title type='text'>ミル・ファイユ・ヴェルト　日々考えること</title><subtitle type='html'>クライアントさんとお会いしお話をすると、自分自身の心の中にも同じようなネタがたくさん眠っていたことに気づきます。そのような「ネタ」の正体を求めて読んだ本のうち印象に残ったものをご紹介します。また、本だけでなく、映画やその他個人的な雑感など、自分自身のメモのために記録していこうと思います。できるだけまじめ一方に陥らないように、ときにはおいしかったラーメン屋さんの報告などもしてみたいと思います。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' 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class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/-ZH5tIsKNCe0/TuXTNp_zVPI/AAAAAAAAACU/VBx7cu-8pNw/s1600/mTS0H.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" height="210px" oda="true" src="http://2.bp.blogspot.com/-ZH5tIsKNCe0/TuXTNp_zVPI/AAAAAAAAACU/VBx7cu-8pNw/s320/mTS0H.png" width="320px" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;　ベルイマンはスウェーデンの映画監督です。２０００年代初頭に亡くなりました。もう戦前から映画を撮っているのですが、ベルイマンらしい映画になるのは１９６０年代からです。とくに『沈黙』『冬の光』『鏡の中にあるごとく』三部作は人間の苦悩を真正面から取り上げるベルイマンらしさが色濃く表現されています。&lt;br /&gt;　ベルイマンの作品で一番好きだったのは『野いちご』という作品で、これは以前紹介したかもしれませんが、特にその冒頭の老教授の見る夢のシーンはものすごくて一生印象に残るかもしれません。&lt;br /&gt;　さて、この『冬の光』ですが、舞台はスウェーデン寒村です。主人公は神父（スウェーデンは新教国ですからプロテスタントではないかと思うのですが、どうもミサの儀式をやっているようなのでカトリックの神父のように思えるのです。未確認です）で、しかもその神父は人間的に弱く、悩みを抱えています。信者の中の一人の女性はどうも神父の愛人のような存在ですし、ある若夫婦の妻のほうが夫の様子がおかしいので少し話しをしてほしいと頼んで相談に乗るのですが、神父は自分が現在抱えている苦悩を吐露ししまいには泣き出してしまい、逆に問題を抱えている自分の信者から慰められる始末です。しかも、その信者さんはその直後猟銃を口にくわえて自殺してしまいます。&lt;br /&gt;　神父は自殺現場に向かいますが、警察の現場検証の都合上一度警察にもどらなくてはならないということで神父が死体の見張り役を言いつかります。自分の司牧上の失敗で自殺を遂げた信者の死体のそばに一人っきりで立ち尽くさなければならないのです。その上、さきほど夫の様子がおかしいと相談を持ちかけたその夫の妻のところにもこの事件の顛末を知らせに行かなくてはなりませんでした。&lt;br /&gt;　さて、ミサの時間がやってきます。&lt;br /&gt;　教会の会堂には神父の愛人しかいません。いつも神父に批判的な態度で接し、神父を見下しているオルガン奏者の伊達男は、今日はミサは休みだろと決め付けます。&lt;br /&gt;　控え室に座っている神父のそば教会の鐘を鳴らす係りの男－彼は全身を神経痛に侵されている身障者です－が神父の隣に座り、その朝神父にした質問の答えがわかったと報告します。十字架につけられたイエスの苦しみとはなんだったかのか、という問いかけです。&lt;br /&gt;　鐘つき男の答えは、自分自身神経痛で２４時間痛みを感じている。イエスの苦痛はせいぜい３，４時間だろう。イエスの苦しみはそのような苦しみではなかった。むしろ、誰も自分の苦しみを理解しなかった孤独の苦しみではなかろうか。最後には神さえもイエスを見捨てたと感じた。この孤独の苦しみこそイエスの苦しみの本質ではないだろうか。こういっている鐘つき男のそばで座っている神父の額には、白黒の映像の中でも、はっきりと脂汗が流れているのが見えます。&lt;br /&gt;　こうして、神父は自分の愛人と、鐘つき男の二人きりしかいない教会でミサを定刻どおりに開始するのでした。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-2481321769385139712?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/2481321769385139712/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=2481321769385139712' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2481321769385139712'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2481321769385139712'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2011/12/blog-post_12.html' title='最近見た映画　ベルイマン『冬の光』'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/-ZH5tIsKNCe0/TuXTNp_zVPI/AAAAAAAAACU/VBx7cu-8pNw/s72-c/mTS0H.png' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-2064798885664016770</id><published>2011-12-12T18:46:00.001+09:00</published><updated>2011-12-12T18:46:09.368+09:00</updated><title type='text'>最近見た映画</title><content type='html'>最近見た映画について報告します。&lt;br /&gt;　まずジャン＝リュック＝ゴダールの『映画史』です。これは１ａ、１ｂから始まり、４ａ、４ｂで終わる（と思われる）全部で８編からなる「映画」です。なぜに「」つきの「映画」なのかというと、それはドキュメンタリーでもなければ、通常のストーリーのある映画でもなければ、さりとていわゆる「実験映画」でもないからです。まだ全部みたわけではないですが、そのうちの一本を見ましたが、わずか４０分くらいの長さですので、すぐ見終わるのですが、見終わった時点でまた最初から見たくなります。なので、もう４，５回見ました。それでも足りない感じがしますので、おそらく今後さらに４，５回みることになるでしょう。&lt;br /&gt;　内容は、これまでに公開された映画（古いものはリュミエール兄弟あたりから、新しいものでもせいぜい７０年代くらいのものでしょうか。まだ検証していません）、のモンタージュでありコラージュになっています。しかも、著作権があるのかどうかわかりませんが、ゴダールはそれらの映画の各シーンを自由自在に切り刻んで、中にはゴヤだとかマネだとかフェルメールだとか絵画が挿入され、正直「いったいこれは何なの？」という反応でした。「？？？」の反応しか生じないのです。&lt;br /&gt;　私は字幕なしで見たのですが、合間合間にやさしいフランス語の字幕（スローガンに似ています）や朗読がＢＧＭとして流れます。むしろ、これらの朗読のほうがメインで映像は副次的な効果として利用されているとみなすことも可能です。&lt;br /&gt;　私は映画評論の詳しいことはわかりませんが、このゴダールの『映画史』は大きな衝撃でした。&lt;br /&gt;　「言葉」というものを私たちはふだん真剣に聴いていないことを気付かされました。&lt;br /&gt;&lt;div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/-zDpfHn_Swq8/TuXNSWufZGI/AAAAAAAAACM/oVrYTzcN0h8/s1600/4593327_t1.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"&gt;&lt;img border="0" oda="true" src="http://1.bp.blogspot.com/-zDpfHn_Swq8/TuXNSWufZGI/AAAAAAAAACM/oVrYTzcN0h8/s1600/4593327_t1.jpg" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;　どういう理由で衝撃を受けたのかまだ整理されていないですが、芸術の最先端、アヴァンギャルドという意味での短命な衝撃なのではなく、思索を必要とするような衝撃でした。それだけに、人間存在の根源を問うだけの力をこの作品は持っており、それだけに普遍性を持つ作品と感じました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-2064798885664016770?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/2064798885664016770/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=2064798885664016770' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2064798885664016770'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2064798885664016770'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2011/12/blog-post.html' title='最近見た映画'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' 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/&gt;　通常のカウンセリングでは基本的にクライアントさんに対して忠告や忠言はしないことになっています。表面的にはその時々のクライアントさんの問題解決に資するようにめますがいくらよい忠告をしたところでクライアントさんの抱える問題の根本解決には繋がらないのです。つまり、クライアントさんが要求しているのは、表面の要求とその底に深い要求との二重になっているということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　忠告はクライアントさんの表面の要求に答えを提供するものですが、クライアントさんにとっては問題の根源は深く無意識に根ざすものですから、こっちの無意識の方の要求に耳を貸すものでなくては持続的でないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それに具体的な事柄やモノを要求しているのではなく、その事柄やモノを欲求する無意識の方の要求や声のほうが大事なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　しかしながら、分析心理学の祖ユング自身は彼自身のクライアントであるある神経症の青年にそのときその青年が続けていた中年女性との不倫を即座にやめることが青年の神経症を治癒する方法だと述べたにもかかわらず、そう言われた途端、その青年はユングのところにこなくなったそうです。これはカウンセリングにおける忠告の無効性を証明してもいますが、同時に、カウンセリングは人間の無意識を扱うものですが実際にはその無意識というのは日常生活の具体的な人間関係や物質的な生き方と非常に固く結びついていることを証ししています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　催眠療法においては、過去の幼児期などに起こったトラウマ的な体験やそのときの感情を思い出すことで、現在支障をきたしている生活を回復したり治癒したりすることを目標としています。フロイトが「反復強迫」と名付けた理論がここ催眠療法では実際に生かされていると考えられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　すなわち「反復強迫」というのは虐待を幼児期にうけた人が成人後も虐待をうけやすい人間関係に自ら知らず知らずのうちに自分の身をおいてしまう無意識の自発的行動のことを指します。他人から見ると本人が意識して好きでやっているように見えますが、本人にしてみれば、自分の無意識でやっていることですから、あたかも多重人格者における他の人格がかってな行動をやらかして主-人格があとで困るといったケースと似ていうるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「反復強迫」は自分の本当に嫌なことを本人が真に気づくまで同じような体験を繰り返し繰り返し本人に繰り広げる、巻き込む、という心の仕組みなのですが、これが続くと無意識に不幸な人生を繰り返すことになり、催眠療法で過去の「反復強迫」の元になっているトラウマ的体験を思い起こすことで、この不幸の根っこを断ち切ることが可能で、それまでの悪夢のような人生から、真に前向きな希望を持てる人生へと変換をはかることが叶う可能性が出てくるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ、催眠療法では基本的には、クライアントさんがよりスムーズに過去の出来事を思い出していただくためにひたすらリラクゼーションに時間をかけます。クライアントさんによっては、リラックスすることそれ自体に罪悪感を感じてしまったり、リラックスする必要性さえ無感覚になってしまっている方も少なくありません。無意識のうちにリラックスすることに抵抗感が存在するようです。自分に鞭打って自分を罰することが心のバランスを取るように心のメカニズムができあがっていたり、リラックスすることで思わず過去のトラウマを思い出す可能性が生じるのを防ぐ目的ももっているのかもしれません。なので、リラクゼーションと言っても生やさしいものではなく、私にとって催眠療法を行うときは文字通り冷や汗・脂汗をかきながらクライアントさんにこれでもかこれでもかと何重にも深いリラクゼーションに導くように努力しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　催眠療法を実際に行うときには、リクライニングチェアに横たわって暗くした部屋で行うため、ある意味クライアントさんに「さあ思い出すぞ」と構えさせることになり、普通の椅子に腰掛けて通常の話をしているときには思い出せるのに、リラクゼーションをして退行催眠に入るのでよけいに何も思い出せなくなる人が若干います。それにはよほど大きな心の負荷がかけられていて思い出すものが重い場合には起こりやすいものです。しかし、何度か試していくうちに、思い出す状況が次第に具体的になり思い出す場所や人々や自分の立ち位置なども奥行きと匂いその他の五感を伴なうものとなります。そして深い感情も蘇っていきます。&lt;br /&gt;　催眠療法では基本的に私のほうからあれこれ価値判断することは一切控えます。それがよかったか悪かったかはご本人次第で、しかもご本人の経験や認識の深さによって「人間万事塞翁が馬」のように善悪が入れ替わったりします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　家内がやっているリーディングの方は基本的に何も道具立ては必要とせず部屋の明かりもそのままです。普通のいすで特にリラクゼーションの誘導も行わず、いつのまにか深いトランスにクライアントさんは入っていきますが、おそらくご本人も自分がトランスに入っているかどうかなど気づいておられないと思います。ごくごく普通の日常の会話からセッションは進んでいきますので。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大きく催眠療法と異なるのは、完全に100％無意識の深みに忘却されている記憶（それだけにやっかいでその人の人生を根本から支配しているのですが）を家内の特殊能力とでもいうのでしょうか、気の力というのでしょうか、よく説明はできませんが、いずれにせよクライアントさんの心の世界に入って思い出せない部分や障害となっている箇所をスムーズにして（どうやって？かはわかりません）ご本人にまざまざと思い出す手助けをすることにあります。ですから、オーラリーディングなどで「あなたの前世は☓☓です」とか「あなたの未来はこうなります」とクライアントさん自身、寝耳に水のような話を投げかけるのではないのです。どなたかあるクライアントさんが「それではそれはダンブルドア校長がハリー・ポッターに彼の過去のビジョンを見せるようなものなのか」と聞かれましたが、まさにそれが一番近いといえましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　効力としてはうちでやっている催眠療法よりも家内がやっているリーディングのほうがはるかに強い効力をもっていると思います。ただそれだけに、「なかったことにしよう」とか「これはみなかったことにしよう」という心理が後で働き、よほどの覚悟やよほど人生において追い詰められていないと、元の木阿弥のなる可能性も高いです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　また身体の状態も心に影響されて病気になることも最近では認められてきていますが、リーディングの結果、良い結果をもたらす可能性も考えられますが、それはあくまで結果オーライで、霊感商法のようにあらかじめこれを施すと病気がなおりますよなどとお約束することはできません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　リーディングの場合はふつうのリビングでふつうの椅子に座って普通の会話のなかで進めていくのですが、そのためにひとつだけクライアントさんにやってもらうことがあります。それは「グラウンディング」といって、自分の身体の各チャクラに意識をあわせてもらうことです。それは実際にやってみるとそんなに難しくもなく、練習なども必要ありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　リーディングについては次回もう少し詳しく書いてみます。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-2407530552663116451?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/2407530552663116451/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=2407530552663116451' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2407530552663116451'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2407530552663116451'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/08/blog-post_2597.html' title='催眠療法とリーディングの違いについて'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7262454525199304187</id><published>2010-08-21T19:31:00.000+09:00</published><updated>2010-08-21T19:31:49.706+09:00</updated><title type='text'>通常のカウンセリングと催眠療法の違い</title><content type='html'>&amp;nbsp; 通常のカウンセリングといっても、現在の日本では心理療法もいろいろな流派がありそのすべてを知っているわけではありませんので、ここでは私が知っている限りでのカウンセリングというものと催眠療法との違いについて書いてみたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　現在の日本でもまだまだロジャースの影響が強いような気がします。１９５０年から１９６０年ころにアメリカから日本に入ってきたカウンセリングの方法というかひとつのスタンスです。ロジャースによれば、共感しながらクライアントのいうことを傾聴していくことでクライアントの抱えている問題に対するクライアント自身の見方に変化が生じ、自ずと解決の道をクライアントの方で見つけていくというものです。正確なロジャース学派の主張していることと違うかもしれませんが、基本的にロジャース学派のカウンセリングではカウンセラーは（これは他の流派でも同じですが）クライアントに対して意見や忠告などは禁止されます。ただ「そうですね」とか「そうだったんですか」とか「つらいですね」とかあとはクライアントの言ったフレーズ（文章）をそのまま繰り返したり、とかクライアントと同じあゆみをするだけです。ここで大切なのはクライアントのあゆみを一歩も先んじてはならないということで、それでもクライアントに共感したり、一生懸命に聞いたり、クライアントの言うことを繰り返したりすることで、クライアント自身の心の底から自分自身の問題に取り組もうとする活力が湧き上がってくる、もしくは湧き上がってくるのをひたすら待つ、ということが大事なのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ですから、ロジャース学派のカウンセリングは短くても半年以上、長くて３年も５年も時間がかかります。もちろんその間にクライアントさんのほうがいやになって逃げ出さなければの話ですが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今日の日本、特にスクールカウンセラーの態度はだいたいこのロジャース学派の「共感」と「傾聴」に基づいているのではないかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たしかに、カウンセラーとして共感しながら傾聴していくことや、クライアントさんのいうことをペーシング（クライアントの言葉を繰り返す）していくのには非常な体力精神力が要ります。そして、「あなた（クライアント）の感じているのはこういうことではないでしょうか」とクライアントさんの感じている感情や「感じ」をカウンセラー側で表白するのもひとつの名人芸ではあります。カウンセラーとクライアントはひとつ空間のなかでクライアントの語る言葉や問題を共有することでひとうの心に溶けこもうとしているのかもしれませんし、そこにロジャース学派の「ダイナミックさ」が存するのかもしません。&lt;br /&gt;　ただ、クライアントの立場から見ると、ただ共感されているだけでは物足りない、いや、それどころか、カウンセリングを重ねれば重ねるほど、なにか不満のようなものが溜まってくるように感じるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いつまでたっても核心の部分に入っていけない、いつまでたっても周辺に立ち止まっているという不満がそれなのかもしれません。&lt;br /&gt;　つまり空回りになってしまっている場合、ロジャース学派の場合、そのまま核心に到達するのを逆に妨げているケースも考えられるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　催眠療法（ミル・ファイユ・ヴェルトのリーディングも）では、まずは、感情をテーマにしますので、その人が今何を考えているか、もしくは、今を何を感じそれをどういう言葉で表現してその表現されたものを主題にするというよりも、その人の無意識がリアルタイムで指し示しているものに立ち向かうことができます。ただ、出てきた感情がクライアントさんの無意識の奥深く隠されたものであると、なぜにこの感情なのかクライアントさん自身にも自分の日常の意識と結びつけることが不可能になってしまいます。そこに強烈な拒否反応も生まれるのですが、拒否反応が強ければ強いだけ無意識の核心に入っているという証拠でもあるのかもしれません。&lt;br /&gt;　私たちは日常の意識のなかで、無関係なものを一緒くたに結びつけたりしません。たとえば、靴とマンガ本。この両者は一般的にはナンセンスですが、ある特定の個人にとってはとても含蓄深い意味をもつかもしれません。しかし、その人が自分の無意識のなかに深く入っていかないならば、自分の体験に根ざすものにもかかわらず、この「靴とマンガ本」という取り合わせは意味から疎外されたままなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ロジャース学派の、つまり通常のカウンセリングの方法では、言葉を使っての表現であるために、この無関係なものの結びつきという発想がなかなか出にくいのかもしれません。論理化していくことで、自分の心の奥深くにあるもに到達するのが容易でないのです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7262454525199304187?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7262454525199304187/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7262454525199304187' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7262454525199304187'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7262454525199304187'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/08/blog-post_21.html' title='通常のカウンセリングと催眠療法の違い'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-9159112936751481373</id><published>2010-08-21T19:28:00.000+09:00</published><updated>2010-08-21T19:28:40.089+09:00</updated><title type='text'>子供にときに読んだ漫画について</title><content type='html'>　小学校５，６年のころでしょうか、私は漫画に読みふけるようになりました。活字の本は動物図鑑・鉱物図鑑・昆虫図鑑などのたぐいは暗記するほど読み込んでいたのですが、小説などの活字の本はどうしても読み進めることができませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そんななかで漫画は絵が中心でしかも刺激的な内容が盛り込まれていますからどんどん読み進みほとんど中毒と化していました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　いまから４０年くらいまですからテレビゲームもビデオもなかった時代です。漫画は格好の夢中になる道具でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その頃読んだ漫画のなかに永井豪という漫画家の『デビルマン』というのがありました。いまでも講談社から全５巻で手に入ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この『デビルマン』という作品はその後テレビアニメ化されたのでご存知の方も多いかもしれません。しかし、テレビアニメの『デビルマン』は毎回登場する敵と闘うヒーロー物になっているので子供向けのつくりになっていますが、漫画本の方の原作は内容が小学生の子供にはとても咀嚼できない世界観になっていてそれゆえ子供の心に強烈な世界観を植えつけてしまうおそれもあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ストーリーは不動明という高校生が飛鳥了という科学者の息子に説得されてみずからデビルマンになってしまうというところから始まっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　作品によれば、悪魔とは人類の誕生以前に栄えていた種族で、一度滅びてしまったが、今再び地球を人類の手から取り戻すために蘇ってきたという設定になっています。「悪魔」はもともとその生存のために様々な動植物と合体し異様ないきものになって地球上に生き延びてきたが、今度の場合も、「悪魔」はテレポーテーション（瞬間移動）をつかって人類に乗り移ってくるというのです。ただし主人公の不動明だけは悪魔の意識に乗っ取られず、自分固有の意識を保持することができたため、いわば悪魔人間という新しい存在になれたと作品のなかでは描かれています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　「悪魔」というのは『デビルマン』のなかでは、まるで恐竜のように地球上に一度栄えては絶滅した生物種のような存在です。ですから、「悪魔」だから邪悪なる存在というわけではないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ところが作品中では、悪魔が乗り移ってくる状況は飛鳥了という不動明の親友が創りだすために、わざと血潮が噴き出るような乱闘シーンを招来するようなまねをします。「悪魔は血を好む」というのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして実際、デビルマンを倒すために送り込まれる悪魔はどれも異様な姿をとっています。大人の私にさえその異様さが感じられますますから、子供時代に読んだときにはどれだけ強烈な印象を残したか計り知れません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たとえば人間を殺さずにたべてしまう亀の姿をした悪魔など。食べてしまった人間の顔は甲羅に表面化しているのです。しかも痛みなどまだ感じるのでこの悪魔に食べられた人間は生きているのと変わりありません。その犠牲者のひとりに不動明がかわいがっていた知り合いの「さっちゃん」という少女もいました。不動明＝デビルマンはそれでもこの悪魔を圧倒的な力で倒すのですが、そうすることで、甲羅にいる人々は、さっちゃんも含めて皆完全に死んでしまうのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今でもこの部分を読んだときの割り切れなさ、ただの恐怖とは違う、ある種やりきれなさが蘇ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　他の場面ですが、妖獣シレーヌというデビルマンを窮地に陥れた悪魔（女）は最後デビルマンに倒されそうになったとき、カイム（カムイのパロディか？）というサイの姿の悪魔が登場してシレーヌの助っ人となります。カイムはシレーヌを好きらしく、そのためには自分の命も全然惜しがりません。シレーヌは止めようとしますが、カイムはさっさとしっぽで自分の頭を切り取ってシレーヌが自分と合体してより強力になるよう促します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　デビルマンはこれによって瀕死のところまで追い詰められますが、最後はシレーヌ自信が生き絶えてしまい、デビルマンは命拾いをするのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　この場面も、小学校の５、６年生だったときの私の心に異様な印象を残していまもそれがそのまま残っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　まず、作品でいうとデビルマンは主人公なので正義の味方のはずで、そのデビルマンと戦っているシレーヌをはじめ悪魔軍団は悪者のはずなのに、その悪者のシレーヌを助けるためにカイムは自分の命を捨てて顧みない、ということに納得できなかったのです。子供心にこの筋書きはどこかおかしいと感じはしたのですが、それがどこなのか理論的に指摘することができないので、ストーリーをそのまま受け入れるしかありません。先程の「ジンメン」と呼ばれる亀スタイルの悪魔が登場する話にしても、「おれを殺すとこいつらもみんな死ぬんだぞ」と脅すジンメンに対して、デビルマンは「でもおまえも死ぬんだろ」と言い返し強烈なパンチをジンメンの甲羅に浴びせさっちゃんも死んでいきます。この場面も何度も読み返しましたが、そのつど心に刺がささったままでどうしてもカタルシス（浄化）の作用はありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　一般的に芸術作品の目的はカタルシス（浄化）の作用にあることをアリストテレスという哲学者は述べていますが、『デビルマン』にはこのカタルシス（浄化）の作用は一切ありません。どんなに憎たらしい悪者をやっつけても後味の悪さが残るのです。それは質の悪い油で揚げたトンカツが胃にもたれた状態に似ているかもしてませんが、それ以上の不気味さがこの『デビルマン』にはあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　たとえば、ツトム君という少年に犬をけしかけている実母の話があります。すでに両親とも悪魔に乗っ取られているので、ツトム君は帰宅したあと、父と母（の悪魔）の餌食とされてバラバラに切り刻まれるのですが、今でいうと幼児虐待の警告とも批評とも読めるのかもしれませんが、あまりにあっさりツトムくんはバラバラにされてしまうので、たんなる残酷さしか感じられません。かといってそれはスプラッタームービーのようなただの残酷なシーンの露骨な連続というのでもないのです。何かひとつの思想のようなもので自分自身が毒されていくようなそういう後味の悪さがあるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　『デビルマン』も全5巻ありますから、今紹介した以外にまだまだいろいろな話がありますが、ここでは、最後の方の場面からもうひとつ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最後の方で、悪魔が人類に対して総攻撃を開始します。いたるところで悪魔が人間に乗り移ってきて街は混乱に陥ります。そしてデビルマンである不動明が下宿していた牧村家の人々もデビルマンである不動明をかくまっていたということで人類の「魔女狩り」の対象にされます。デビルマン助けに来るのが遅く、牧村夫妻は魔女狩りの拷問で惨殺されてしまいます。&lt;br /&gt;　そして拷問の機械の陰に隠れていた人間が、作品のなかではとても邪悪に描かれています。本物の悪魔以上に邪悪で狡猾な性格ともつものとして描かれています。これに対してデビルマンは怒りの炎を燃え上がらせ一瞬のうちに殺してしまうのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その後、デビルマンは牧村家に向いますが、唯一その人を守るためならと考えていた恋人牧村美樹もすでに近所の人々の魔女狩りの犠牲者になってしまっていたのです。このときもデビルマンは最大限の怒りの炎で人々をあっというまに殺してしまうのです。デビルマンの怒りの形相は線画で2ページにわたる広いスペースのなかに小さく描かれていて子供時代にはとても印象的でした。それで私は小学校の授業中にこの場面のデビルマンの似顔絵をノートに落書きしていたものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最後は飛鳥了というデビルマンの親友が実は悪魔の親玉でサタンその人にほかならず、そのうえ、サタンは両性具有だったので不動明＝デビルマンを愛してしまったということなのですが、悪魔軍団のサタンとデビルマン軍団との最終戦争になります。いわば黙示録の戦いです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　最後は人間でさえ登場しなくなり、正義の味方という立場も完全になくなってしまいます。（牧村美樹が血祭りに挙げられたので人類に未練はないのでしょう）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　デビルマンである不動明はデビルマンになる以前は気の弱い喧嘩などできない弱虫でした。それがデビルマンとなってからはやたらけんかは強くなり（当たり前ですが）デビルマンに変身しても、正義のためというより血生臭いことに快感を覚えるから戦っているように描かれています。といって完全な野獣ではなくきちんと人間の理性は保っているのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それに、魔女狩りが始まってから描かれている人間は不動明の知り合い以外はみなサイテーの性格をもつ人間として描かれています。読んでいてこんな人間ならいないほうがいいと思うようになるほどです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そして、サタン率いる悪魔軍団にしてももともと地球の先住民ですから人類から地球を奪い返したい気持ちに共感もできます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　サタンである飛鳥了の不動明に寄せる思慕の念も理解できます。&lt;br /&gt;　でもこれらがいっしょくたにされて提供されるとどこに足場を於けばよいのかわからなくなってしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　あるのはただ世界の破滅の戦争である黙示録的な戦いと、デビルマンの怒りの炎、それに、あまりにもあっさりと惨殺されてしまう主要な登場人物（恋人、牧村美樹も含めて）たちです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　そこにはただただ残酷さ、残酷な行為によって引き起こされるデビルマンの怒りの炎、それに人類すべてが滅びてしまってもいいという考え方です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　『デビルマン』にはある意味、倫理的なルールがもともと存在していないのに、あたかも登場人物たちは倫理的なルールで行動しているようなみせかけがところどころでなされています。実際にあるのは暴力と無責任な怒りの応酬だけですが、それを非常に雑な仕方で道徳的な苦悩とか道徳的なしばり、それに理性的な考え方で非常に下手なしかた（わざとのように）まとわれているのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　『デビルマン』の作品世界のなかにのめり込むと小学校くらいの子供だとイチコロで価値観が崩壊してしまうかもしれません。なにせ私自身が小学校の５，６年生のころに読んだときにひとつの世界観として私の心のなかに定着してしまいましたから。どこかがおかしいのですがどこがおかしいの指摘できないので、その作品に浸透しているものの見方を受け入れてしまうのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ある意味、私の心のなか怒りと怒りのあとのことは一切知らないという無責任さがそのままこの作品のなかに表現されていて、自分の心のなかにあったものがそこに表現されているのですから批判できなかったのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　デビルマンの行動原理は、基本的に反倫理的です。非常に恣意的でそのときそのときの衝動で動きますが、自分では道徳的に行動しているように、つまりなんらかの理性的な理由があって行動しているように描かれています。この漫画では、世界が滅びることさえデビルマンにとってはどうでもいいことなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ただ思春期の子供は、やはり同じような思考傾向をもつような気がします。つまり自分の衝動だけがすべてで世の中がそのために滅んでも構わない、というような極端なところまでいくのが思春期前期の子供の傾向です。しかし、たいていの子供はそういう自分の考えと実際に接触する世界との軋轢から様々なことを学んでいき、この衝動が生のままは実らないことを知っていきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　『デビルマン』の世界観はこの外界と接触と軋轢の要素が非常に欠けているように思えます。主要人物があまりにもあっさり惨殺されるシーンなどはとくにそう感じます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私にとってこの『デビルマン』という作品は私が思春期に入る頃に大きな影響を受けてまだ完全にはその影響から抜け切れていないのですが、今あらためてこの作品について考えるとまだまだいろいろ洗脳されている点が出てきそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-9159112936751481373?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/9159112936751481373/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=9159112936751481373' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/9159112936751481373'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/9159112936751481373'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/08/blog-post.html' title='子供にときに読んだ漫画について'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-5005606959550679084</id><published>2010-06-10T21:25:00.000+09:00</published><updated>2010-06-10T21:25:43.931+09:00</updated><title type='text'>子供の人生は誰のもの？</title><content type='html'>　私たちには様々な生き方の方針というのがあります。哲学者のカントはこれを「格率」と呼びました。「格率」というのは個々人の生き方の傾向一般のことを指します。たとえば「人を見たら泥棒と思え」というのも「格率」の一つです。このような「格率」をもとにして生きるとそれなりの生き方ができますが、他方でそれ以外の生き方を認めないという制限も同時に受けます。人によっては博愛主義を「格率」とする人もいます。それによって困窮している人や助けを必要としている人に手をさしのべるのは立派な人ですが、もしこのような生き方を他人に強制するようなことがあれば、それは支配の一形態であり、他者の存在を否定することでもあります。&lt;br /&gt;　とくに一見立派に見える「格率」をもって子供を育てれば良い子に育つわけではありません。むしろ、その子の個性や存在そのものを否定して親の「格率」をわが子に押し付けることになるので、子供は自分の存在を認められていないという感覚だけを強くもちます。&lt;br /&gt;　「格率」というのは、すべての事柄がそうであるように、それを担う人の人生経験が血肉化したものでなければ単なる束縛に堕してしまいます。&lt;br /&gt;　人を縛る一種の方法なのです。&lt;br /&gt;　誰かに自分の人生観を押し付けることは、どんなに素晴らしく高尚な人生観に見えても、それは暴力の一種なのです。&lt;br /&gt;　愛情というのは、その人の存在に何の要求もすることなくすべてをありのままに認めることにあるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　親の愛情のもとに、親の「格率」を子供に適用することは、子供が持つ「自分」を圧殺し締殺すことになるのです。&lt;br /&gt;　ただし、そのようなことをしている親自身が、自分の子供時代に同じことを親からされたわけで、意識のうえでは何の疑問ももつことなく今度はわが子に適用しているので、これに気づく親は例外的といえます。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-5005606959550679084?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/5005606959550679084/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=5005606959550679084' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5005606959550679084'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5005606959550679084'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/06/blog-post.html' title='子供の人生は誰のもの？'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7143122395546449009</id><published>2010-05-23T16:08:00.000+09:00</published><updated>2010-05-23T16:08:37.536+09:00</updated><title type='text'>ある日曜日の朝</title><content type='html'>　ある日曜日の朝早く起きて犬の散歩をしました。なぜかしらいつもとは違うことに気付きました。何かが違うのにその何かがわかりません。道路の真ん中に遊歩道があり、暖かい季節ですので様々な草花が成長し小さな花を咲かせています。そのときその「何か」ということに気付きました。私はこれらの雑草や名もない花とは違う存在であるということに気付いたのです。これらの遊歩道に育ってはやがて枯れていく草花は私とは違う存在としてせいいっぱい成長しようとしていることに気付きました。あたりまえなのにいままでこんなにはっきりと自分とは違う存在が身の回りにあるということに気付かずに生きてきました。&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7143122395546449009?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7143122395546449009/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7143122395546449009' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7143122395546449009'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7143122395546449009'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_23.html' title='ある日曜日の朝'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7471235032322942748</id><published>2010-05-17T20:36:00.002+09:00</published><updated>2010-05-17T20:46:12.105+09:00</updated><title type='text'>自分の要望でもっとも相手に伝わりにくいこと</title><content type='html'>　自分は相手に要求することでもっとも伝わりにくいこと、相手にこうして欲しいと願っているのにそれが全然に相手に伝わらない、そんなストレスは誰にでもあるのではないかと思います。私も生徒たち「ちゃんと聞きなさい」と繰り返し言うことがここ最近多くなっていました。ところが、家内から「またちゃんと聞いていないんだから」と立て続けに指摘されることがあって、「また私の言うことちゃんと聞いていないんだから」という家内のセリフ自体をスルーしていたことにようやく気付きました。そして、そのことに気付くと、自分が家内の言うことに耳をきちんと傾けていず、耳を傾けていないということ自体をスルーして、すなわち無意識に押し込んでいるのに、同じセリフを生徒に言っても伝わるはずがないということに気付きました。自分が、ちゃんと聞くことになんらかの強い抵抗をもっているのに、その同じ人物の「ちゃんと聞きなさい」という言葉は内容空疎なものにならざるを得ません。なぜならその発言や声の中に「私はちゃんと聴きたくない」というメッセージが影響力を行使しているいから、「ちゃんと聞く」というメッセージよりも「何も聞きたくない」というメッセージの方が生徒に伝わるからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それでそのことを自分の意識にしっかりもたらし対象化して、自分でもわかっていないのだということを生徒に伝えたところ初めて「ちゃんと聞く」ということが生徒に理解してもらった瞬間がありました。自分で自分の前に大きな障害を作っておいたわけで、自分で置いたからには自分でどけるしかないのですね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　だから、人間関係の中で円滑に進まない事柄あって、自分のストレスになっているとき、その障害を自分自身が作っていないかをまず点検してみる必要があるかもしれません。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7471235032322942748?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7471235032322942748/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7471235032322942748' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7471235032322942748'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7471235032322942748'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_17.html' title='自分の要望でもっとも相手に伝わりにくいこと'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-445738765396763182</id><published>2010-05-16T21:22:00.002+09:00</published><updated>2010-05-16T21:38:17.889+09:00</updated><title type='text'>恐れと欲求不満</title><content type='html'>　学校に勤めているといろいろな子供がいて、子供に与えるこちら側の投影や子供から受けるマイナスの転移によってがんじがらめになりがちです。子供が子ども自身の親その他の大人や関係者に対するネガティブなイメージをこちら側に当てはめ、私ではなくその子供の親などに対する感情や情動を私に向け、同時に私自身がそれらの転移された情動を私自身の無意識の中で反応させ、その私の無意識の反応を自覚しないとき、そのときこそ私が子供から受ける転移によって身動きがとれず、自分の無意識の感情すなわち自分のシャドウ（影）によって支配されてしまうときです。&lt;br /&gt;　こうなってしまうとクラスの雰囲気は互いの無意識や影によって支配・束縛を受け、自由な雰囲気は失われ、互いにネガティブな感情をぶつけ合う悪循環に陥ってしまいます。&lt;br /&gt;　このことについて考えているうちに、私は自分の幼稚園の頃の出来事を思い出しました。&lt;br /&gt;　幼稚園には一年間だけ通ったと覚えているのですが、その一年間のうち夏休みや冬休みなどを除いて、私の出席手帳には出席のしるしを意味するシールが四分の一も貼られていなかったことを思い出します。&lt;br /&gt;　幼稚園に登園すると、必ず二人組の年長の女の子がいたのをおぼろげに覚えています。私はこの意地悪な二人組みの餌食にいつもなっていました。大半は忘れてしまったのですが、ほぼ毎日のようにいじめられていたような気がします。おそらく片方がリーダー的存在でもう片方の女の子は同調しているだけだったのかもしれません。いじめといっても、二人組みの言うとおりのかっこうをさせられたりしたことだけを思い出します。自分の意思に反するポーズをこの二人の前で強制されることは屈辱的でしたが、仕返しが怖いのでこころとは裏腹に顔は笑いながら道化を演じていたように思います。&lt;br /&gt;　もしかしたらもっとひどいことをされたのかもしれませんが、それは完全に忘れています。いつか思い出すかもしれませんが・・・・・・。&lt;br /&gt;　ただ、二人組みの命令にしたがって変なポーズをとったり、二人組みの要望に沿えないときには二人組みが私の手足を勝手に動かしてまるで私は人形のような扱いを受けていたことは思い出します。そしてそれに対して反抗できない自分はお腹の中に欲求不満ばかり溜め込んでいたように思います。自分の意思に反して動かなければならないのはいくら顔で笑っていても苦痛なので、それで幼稚園をずいぶん休んだのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　こうした欲求不満の底には、二人組みへの恐怖、そして恐怖の底には憎しみや怒りが存在したような気がします。&lt;br /&gt;　このような恐怖や憎しみ・怒りは元になった欲求不満は、次第に生きようとするストレートな気持ちを減退させていくような気がします。そしていくら幼稚園時代という遠い過去の出来事でも、現在の私の心の中にいまだわだかまっているのに気付くと愕然とします。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-445738765396763182?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/445738765396763182/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=445738765396763182' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/445738765396763182'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/445738765396763182'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_9169.html' title='恐れと欲求不満'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3177644362244515805</id><published>2010-05-16T10:17:00.002+09:00</published><updated>2010-05-16T10:27:07.758+09:00</updated><title type='text'>防衛反応について</title><content type='html'>　教師をしていますと、たくさん予習していっても授業がうまくいかないときがままあります。自分の頭の中には授業で活用する様々な「秘策」や「秘密兵器」を準備しているのにどれもうまくいきません。そうするとあせるばかりで、今度は授業の失敗をこっちを理解できない生徒のせいにしてしまいます。&lt;br /&gt;　逆に疲労してしかも何も準備していなくても最高の授業ができることもよくあります。疲れのせいで無用な構えが取れて自然体で生徒と直接向き合えるからです。&lt;br /&gt;　人間関係も授業と同じで、相手にすきを与えまいとして防衛的に反応し失敗してしてしまうことがあります。確かに構えていれば相手に伝えるべき必要な情報はそつなく伝え終わるという任務は全うできかもしれませんが、肝心なものが欠けているような気がします。意思の疎通はできても気持ちが通じ合っていないので、結局相手の心までもっとも大切なメッセージが届いていないのです。&lt;br /&gt;　責められるという不安や恐れ、失敗への恐怖が、防衛的な構えを強力にします。そうすると、伝わるのはこの防衛の構えの方で、その内側にある大切なメッセージは硬い殻の中に閉じこもったままで、お互い孤立した関係にあるのです。当然、相手も私の方の防衛的な反応に防衛的に反応してしまいます。ちょうど冷戦時代の米ソの関係に似た関係が人間関係の中で再現されます。生まれるのは不信感だけです。しかも私は不信感を感じていて、相手が同様に不信感を感じていることに思い至らないことも多いのは、自分自身が防衛的な構えの殻から一歩も外へ出ないからです。&lt;br /&gt;　自ら防衛的な構えを捨て去るには、自分が防衛的に反応しているということにまずは気付くことが必要かもしれません。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3177644362244515805?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3177644362244515805/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3177644362244515805' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3177644362244515805'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3177644362244515805'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_6162.html' title='防衛反応について'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-5983127260222102120</id><published>2010-05-16T00:45:00.002+09:00</published><updated>2010-05-16T00:53:51.845+09:00</updated><title type='text'>見通せない相手について</title><content type='html'>　職場においても学校においても人間関係というのはもっともうっとうしい問題を提議するかと思えば、プラスに働くときは生きがいそのものになったりします。人は誰かのために役に立っているときに生きがいを感じるというのは確かではないかと思います。&lt;br /&gt;　それだけに人間関係がうまくいかないときの割り切れなさや不完全燃焼のストレスは後を引くものです。&lt;br /&gt;　そんな人間関係で感じるトラブルの大半は互いに自分の影を投影し合い、同時に相手に自分の影を無意識のうちに当てはめてさらには見えないクモの糸でがんじがらめにすることによって逆に自分自身をがんじがらめにしてしまうことから身動きができなくなってしまうケースが少なくありません。投影であるだけでなく、相手に自分のこころの中のマイナスの人格像を転移してしたいりされたりするのです。&lt;br /&gt;　そうなると、相手の姿が自分の影で真っ黒に塗りこめられて、見通しが利かなくなります。透明でなくなるのです。&lt;br /&gt;　相手の正体が得体の知れないものになってしまうのです。相手が肉眼で見える姿の背後に何か隠していると思われるのですが、その正体が見通せないそんな不安に捕らわれます。これこそ自分の影なのですが、この見通しが立たないうちはその人との人間関係はネバネバした状況にネバネバした指を突っ込んで悪化させることになってしまいます。まずはゆっくり休んで自分の影を見つめられるだけの体力を養うことが肝心ではないでしょうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-5983127260222102120?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/5983127260222102120/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=5983127260222102120' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5983127260222102120'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5983127260222102120'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_16.html' title='見通せない相手について'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-6152031912183986931</id><published>2010-05-11T15:22:00.002+09:00</published><updated>2010-05-11T15:40:56.878+09:00</updated><title type='text'>見えない無意識、認められない無意識</title><content type='html'>　無意識というと、何か得体のしれない心の奥深くの領域のように錯覚しがちです。もちろん、私達の心の奥深くには私達の知らない世界が広がっているかもしれません。夢に以前見た風景が後にどこかの旅先で確認できるというデジャヴュ体験がその例ですし、夢の中で肉親や親しい人が現れていろいろなことを告げてくれたというような不思議な経験も否定することができません。飼っている犬や猫などのペットが危険を回避するのを手伝ってくれたというようなケースさえ世界中どこにでもあります。また犬猫などの哺乳類だけでなく植物と話ができる人もいるそうです。&lt;br /&gt;　ユングは「集合的無意識」と言って、私達の心の底の底のほうではすべての生物・無生物とつながりをもつだけでなく、有史以来のすべての生物の意識が人間の意識の下には広がっていると考えました。さらに、心の中でおきることとは因果関係を持たずに、それでいて心の変化と軌を一にして外部世界で何かがおきるとも言いました。これを「同時性（シンクロニシティ）」と呼びます。&lt;br /&gt;　そのように無意識の世界は夢や超常現象に象徴されるような深淵な世界を私達に連想させますが、それと同時に、無意識は私にもっとも身近なものでもあります。無意識は私達の身体でもあるのです。&lt;br /&gt;　無意識が私達の身体というのは、私達の意識しない行動は身体を通してなされるからです。自然にやってしまったというのは、まるで生理的現象のようです。確かに、ひざをハンマーで叩かれれば、ひざを自動的に反射運動を起こして瞬間的に動きますし、強い光を当てられれば瞬時にまぶたが閉じられます。それとは別個に「自然にやってしまう身体の運動」には生理的現象では説明できない自動的な動きがあります。&lt;br /&gt;　たとえば、何か解答に困ったときに頭をかくとか、あるシチュエーションでは必ずお腹が圧迫されるような感じがするとかあるテーマの話になると眠くなるとかいらいらするとか、などがそうです。&lt;br /&gt;　しかし、それらの身体の反応は本来、意識が担うべき事柄を肩や胃や手が分担しているのです。こうして私達は意識にとってやっかいな事柄から逃げるために身体にそれらの荷物を押し付けます。これが無意識の身体の動きで、それは身体の動きでありながら実は意識の、つまり、こころの動きに他なりません。&lt;br /&gt;　私たちは自分の眼でみることが案外苦手です。ちょうどアメリカ大統領が透明の原稿台で透明の原稿を読むように、そしてテレビ画面に映っている大統領の姿は視聴者である国民を直接みているようですが、実際には「原稿をみているのです」。&lt;br /&gt;　私達はそれとおなじく、皆自分の「原稿」という枠を見ているのであって世界そのものをみているわけではありません。このような「枠で世界を」見ている、というのでもありません。世界の方はほとんど見ないで「枠を」見ているのです。&lt;br /&gt;　要するに、眼はあるけど何もみていない、ということになります。&lt;br /&gt;　見ていないほとんどの部分は無意識の「投影」となりますから、この世は無意識だらけとなります。&lt;br /&gt;　仏教用語でいえば、マーヤ（無明）ということになります。&lt;br /&gt;　世界そのものをみることがいかに大切かということになります。&lt;br /&gt;　世界そのものを見ることは、単に見ることに過ぎないように聞こえますが、世界そのものを自分の眼で見、自分の耳で聞くことは、それ自体で自分自身を無明の世界から救うことにつながるような気がします。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-6152031912183986931?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/6152031912183986931/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=6152031912183986931' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6152031912183986931'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6152031912183986931'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_948.html' title='見えない無意識、認められない無意識'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4742490593994086736</id><published>2010-05-11T12:49:00.002+09:00</published><updated>2010-05-11T12:58:41.542+09:00</updated><title type='text'>トラウマを抱える子供の行く末</title><content type='html'>　子供時代に虐待その他のトラウマを受けて育った子供たちは、大人になってからフラッシュバックや心身の病など様々なトラブルに見舞われますが、同時に怖いのは、悪意ある他人の餌食になりやすいという体質を持ちます。&lt;br /&gt;　たとえば性的虐待を子供時代に経験したこどもは夜道を歩いていて暴行される危険性がそうでない人よりも格段に高いといえましょうし、言葉の暴力や否定的な評価ばかり受けて育った人も職場その他で攻撃的な人格を持つ同僚や上司の標的にされやすいものです。&lt;br /&gt;　実はこういう攻撃的な人格を持つ人も幼児期に何らかの虐待を受けた経験を持つ人が多いのですが、彼らの場合は攻撃者である親とその人格を一致させたために大人になってから攻撃する側に立つことが多いのですが、局面の変化で簡単に被害者に変身したりします。&lt;br /&gt;　親の責務がいろいろあるなか、子供が自分の手を離れて自立していったあとにも、子供が周囲の犠牲者になりやすい体質（あるいは精神的な構え）は親の責任といえましょう。&lt;br /&gt;　だが、場合によっては、子供が成人したあとに少なくないケースですが、今度は親が「自立」しないように足を引っ張るよう無意識に努力することもあります。&lt;br /&gt;　これはそれまで長年培われてきた共依存関係に変化をもたらしたくないという子供側からの（と言ってももはや子供ではなく３０歳、４０歳の大人なのですが）要請に基づくのです。これが成人の引きこもりなのでしょう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-4742490593994086736?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/4742490593994086736/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=4742490593994086736' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4742490593994086736'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4742490593994086736'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_5073.html' title='トラウマを抱える子供の行く末'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-1088101497428006702</id><published>2010-05-11T12:16:00.002+09:00</published><updated>2010-05-11T12:25:54.358+09:00</updated><title type='text'>影について（再）</title><content type='html'>　C.G.　ユングは文明論の中でたびたび影の力について言及しています。&lt;br /&gt;　ユングが生きたヨーロッパは二つの世界大戦と戦後の米ソの冷戦の時代です。&lt;br /&gt;　とくに冷戦の時代については、クレムリンの指導者もホワイトハウスの大統領も共に相手を罵りながら、実は相手の中に自分の権力者の影を見ているに過ぎないと述べています。&lt;br /&gt;　同時に、影からの影響が最低限の人々についても触れていて、こうした人々は外部世界に自分の影を投影することをやめて、自分の心の中深く省察することに時間を費やすと行っています。&lt;br /&gt;　さらには、自分にはすべてを理解でき（悟った）と思い込む人々の意識は無意識に飲み込まれてしまっていると言っています。&lt;br /&gt;　意識の膨張と名付けられるこの現象は、一見、自分の心を修行や内省によって極めたと思い込むところに始まるのです。&lt;br /&gt;　影によって、つまり無意識に飲み込まれるのには、投影された他者を攻撃したり批判することで自分の影を見ずに済ますことだけでなく、自分は影を克服したと思い込むことで知らず知らずのうちに意識膨張に陥って、無意識に飲み込まれていることを自覚しない場合と、少なくとも二つの原因が考えられます。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-1088101497428006702?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/1088101497428006702/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=1088101497428006702' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1088101497428006702'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1088101497428006702'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_11.html' title='影について（再）'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4746607399497364338</id><published>2010-05-10T22:39:00.002+09:00</published><updated>2010-05-10T22:43:57.617+09:00</updated><title type='text'>ウィルキー・コリンズ『夢の女・恐怖のベッド他六篇』岩波文庫</title><content type='html'>　この作品については前にも書きましたが、この本のどこかに「各人の家には必ず白骨死体がひとつや二つは隠されている」という文句で始まる短編があったように記憶しています。各家庭には他人にいえない秘密や家族が暗黙のうちに誓った秘密の犠牲者が存在するのです。&lt;br /&gt;　ですからセラピーの途上で一番抵抗が強いのはこの犠牲者の白骨死体の秘密が暴かれることでしょう。&lt;br /&gt;　しかしながら、その白骨死体というのは一人ひとりの胸の中に隠されている感情のことなのかもしれません。&lt;br /&gt;　無意識は、日々、自分が家族の誰かを犠牲にしていることを知っているのです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' 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title='ウィルキー・コリンズ『夢の女・恐怖のベッド他六篇』岩波文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-6793524696067232954</id><published>2010-05-10T22:14:00.003+09:00</published><updated>2010-05-10T22:29:57.740+09:00</updated><title type='text'>セラピーをうける条件</title><content type='html'>　うちにいらっしゃるクライアントさんは総体としてみるとほとんどの方が重度の悩みや障害を抱えたかたです。おそらくは、カウンセラーによって来るクライアントさんのお話の中身の重さは違っているのではないかと思います。うちに来るクライアントさんはとにかく重い方がほとんどです。それだけにやりがいもあるのですが、いらっしゃるクライアントさんが癒しを進めていくにはそれなりの条件が必要だなぁと感じています。しかし、それは同時にこちら側の条件でもあって、もっと自戒とすべきことがらであると肝に銘じつつそのいくつかを挙げてみると・・・・・・&lt;br /&gt;　まず、「追い詰められていること」これが第一の条件でしょう。追い詰められていないと、セラピーの途上ででてくるいろいろな記憶にたじたじとなってしまいがちです。そのうえ、出てきた自分の感情や記憶の大きさに恐れおののき、それを自分以外のもの（者・物）のせいにしてしまいがちです。&lt;br /&gt;　概してお子さんをお持ちの方や配偶者がいらっしゃる方は、自分の感情や記憶の不快感を子供や配偶者に投影して楽になろうと（＝自分は大丈夫であろうと）欲する傾向があるので、なかなか難しいものがあります。&lt;br /&gt;　家族や身近な人間関係へ自分の無意識の捨て場をお持ちの方はそちらへの逃避から自分自身を見つめるところまで追い詰められにくいといえます。&lt;br /&gt;　一口に「追い詰められる」と言っても様々ですが、「追い詰められた」方の特徴はとにかく自分自身を救うのは「今しかない」という切迫感からか道筋が一本道ですっきりしています。&lt;br /&gt;　いろいろな意味の追い詰められ方がありますが、人間関係的にも精神的にも物質的にも追い詰められて初めては人は自分の行くべき道を自分自身の眼で確認できるのでしょう。&lt;br /&gt;　二番目に大切な条件としては一番目と関連しますが、少々の感情や記憶の重さでも圧倒されないということです。いや、圧倒されはするのでしょうが、それにもめげず進むことができる、という点でしょう。意識が圧倒されても無意識のほうがどっしりと地に足をつけているので少々のことでは所期の決断を曲げることがありません。&lt;br /&gt;　以上の二点はセラピーを受ける条件と申してよいかもしれません。&lt;br /&gt;　もうひとつは、これはユング派の心理学者・カウンセラーの河合隼雄さんがおっしゃっていたことですが、「自分のやったことに対する反省というか罪の意識みたいなもの」が必要かもしれません。&lt;br /&gt;　つまり、自分がやってきたことを自分がやってきたことと認めるだけの責任感を持てるということです。しかしこれも一番目と二番目に挙げた条件に関連することは言うまでもありません。&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-6793524696067232954?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/6793524696067232954/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=6793524696067232954' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6793524696067232954'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6793524696067232954'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_10.html' title='セラピーをうける条件'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-2060209540820039519</id><published>2010-05-08T22:24:00.002+09:00</published><updated>2010-05-08T22:43:45.870+09:00</updated><title type='text'>自分を傷つける嗜癖について</title><content type='html'>昔『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画が少年ジャンプに連載されていました。大人が電車で漫画に読みふけっているのを見ると内心軽蔑している私ですが、当時はかくいう私も車内でこの作品に読みふけっていました。シュールでいてリアリズムを感じさせるこの作品は今読んでも新鮮な印象を残します。単なる冒険譚以上の何か無意識を刺激する内容をもっているように感じられるのです。&lt;br /&gt;　すじはある意味で単純で敵を倒して最終的にボスキャラを倒して終わるというものですが、武器は登場人物の超能力がスタンドという精神力が具象化された異形のものの超自然的な存在です。いわば本人の超能力を視覚的に見えやすい方法で描いたのがこの作品です。敵もいろいろなスタンドを持っていて、どちらかというと不気味なスタンドが多く出現します。&lt;br /&gt;　そんな敵のスタンドの中で印象に残っているもののひとつに次のようなものがあります。ふつう敵を本体を現さずに、スタンドだけを忍び込ませます。ひそかに攻撃するのが敵の常套手段なのです。そんな中でこの印象に残っているキャラは、無様にも最初に自分の姿を主人公たちに見せます。そしてぼこぼこにされるのですが、このキャラの不気味なところはぼこぼこにされた上に自分で自分をさらに傷つけるのです。いわば自傷行為ですが、あからさまな自傷行為に主人公たちはたじたじとなるのです。&lt;br /&gt;　こうして自分をとことん傷つけた後に一旦姿を消します。しかし、このスタンドの攻撃が始まるのはここからなのです。呪いの人形を人知れず残していき、この人形に「しかえし」として主人公たちを執拗に攻撃します。復讐なので思う存分攻撃できるのです。&lt;br /&gt;　このエピソードを見ていて、わが身の振る舞いを反省します。&lt;br /&gt;　というのは、私は子供の頃、兄弟げんかせずに弟に殴られるばかりになっていてあとでその怒りを週根深いかたちでお返しするのが常でしたから。&lt;br /&gt;　また、小学校２年生くらいのころでしたが、何かで癇癪を起こした私は自分が作って市の表彰を受けた紙粘土の人形の作品を破壊したのです。『ジョジョ』にでてくる呪いの人形使いのスタンドと同じことをしてきたのです。&lt;br /&gt;　つまり一旦自分を徹底的に被害者の立場に置いたうえで相手への復讐を開始するのです。&lt;br /&gt;　本当に性質の悪いやり方です。&lt;br /&gt;　いつも怒りは自分や自分のものを破壊することに向けられました。しかし、それは本当の復讐を始めるためでした。&lt;br /&gt;　パニックに陥ってときには自分を傷つけることで落ち着くというふうでした。&lt;br /&gt;　今思うとこれは自分を正当化するのに実に都合のよい方法であったということができます。&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-2060209540820039519?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/2060209540820039519/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=2060209540820039519' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2060209540820039519'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2060209540820039519'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_9757.html' title='自分を傷つける嗜癖について'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3759012175175239878</id><published>2010-05-08T20:54:00.003+09:00</published><updated>2010-05-08T21:07:48.458+09:00</updated><title type='text'>影について</title><content type='html'>私たちは自分の性格や思い出の中でこれだけは思い出したくないというようなものを一つか二つは必ず持っています。それはたとえば散歩中や夜ベッドに入って眠れないときやドライバーでねじを回すだけのような単純作業をしているときにふと心に蘇ります。しかもかなり生々しい仕方でまるで眼前に今繰り広げられているようにそのときの状況が再現されるとき、喉下から苦いつばがこみ上げてくるような不快感に包まれてしまいます。どこにも逃げ出すことができないのでそういうときはただ再現されるシーンを見るだけで精一杯ということさえあります。&lt;br /&gt;　私が今思い出すのは中学時代に新任の顧問の先生から勧められて入った吹奏楽部への出席率があまりにも悪いので止めさせられるのですが、やめるという意思表示ができずうじうじしていたとき学校の渡り廊下でばったりその先生でぶつかってついにはやめるといわなくてはならないところまで追い詰められたシーンを思い出します。&lt;br /&gt;　そこまで追い詰められても私は「やめたい」という意思表示を明確にすることができず顧問の先生から「調子いい奴だなおまえは」と言われたことがグサッと心に突き刺さったことを覚えています。&lt;br /&gt;　こんな思い出したくないシーンは普段は心の奥深くしまいこんであります。&lt;br /&gt;　こんないくつもの記憶や気持ちが無意識の中に影の部分を構成します。ユングはこれをシャドウ（影）と呼びました。&lt;br /&gt;　影は自分のものとは認めがたいので容易に他人に投影され、その人の悪口を言うことで自分の影に気付くことをより困難にさせます。&lt;br /&gt;　こうして影を互いに投影しあうことで人間関係はさらに「ねばねばした状況」に陥っていくものです。&lt;br /&gt;　そして、影に飲み込まれた人間はカフカではありませんが「蜘蛛」のような存在に「変身」を遂げるのではないかとイメージできます。というのは、蜘蛛はネバネバした糸を自分の餌食に巻きつけこれを食するからです。&lt;br /&gt;　影に覆われ飲み込まれた人間関係は互いに蜘蛛と化した人間同士で互いを餌食にするためにネバネバした糸を巻き付け合う関係で、出口が発見不可能になる関係であるということができるのではないかと思います。&lt;br /&gt;　ル＝グウィンの『ゲド戦記』第一巻『影との戦い』はこんなやっかいな性質をもつ影の本質をよく表現していると思います。ぜひ読んでいただきたい作品です。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3759012175175239878?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3759012175175239878/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3759012175175239878' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3759012175175239878'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3759012175175239878'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_08.html' title='影について'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-8587944652390140991</id><published>2010-05-07T00:03:00.003+09:00</published><updated>2010-05-07T00:17:39.238+09:00</updated><title type='text'>再び顔なしについて</title><content type='html'>　あれから犬の散歩に出かけ、この同じテーマについて考えてみました。&lt;br /&gt;　ユング心理学によると、顔なしの「顔」とは「ペルソナ（仮面）」にあたります。ペルソナとは元型のひとつです。私達が対人関係において見せる顔のことをペルソナと言います。職業などの場合にはひときわこのペルソナが強力に私達自身を縛ります。個人であるよりも教師であり警官であり医師である等々。しかし、このペルソナはあくまで仮面で私達一人ひとりの個性の一部をなすに過ぎず、決して私達の全体をカバーするものではないにもかかわらず、実際には帰宅しても職場以外の人間関係においても職場でのペルソナ（社長であるとか商店を経営しているとか）を被りつづける人もでてきます。こういうペルソナが肥大化して自我を覆ってしまうと、人間らしさというか若々しさが枯渇していきます。人間を生き生きとさせるのが、男性の場合だとアニマ（魂）元型で、女性の場合には男性形のアニムス元型です。ペルソナが強力すぎると自己イメージがひとつの職業人に固定されて自分のアイデンティティは職業だけになってしまいます。そうすると自我の背後に控えているアニマ（アニムス）は枯れていきついにはその人の人間らしさ若々しさを奪ってしまうのです。人格として硬直してしまうのです。&lt;br /&gt;　この反対に引きこもりなどで対人関係が貧弱になっていくとペルソナは弱く薄くなりその反対にアニマ（アニムス）元型が過剰に活性化してしまい、その結果アニマ（アニムス）は自我にとって得体の知れない化け物に見えてしまいます。人間の場合は、自分の無意識にある化け物は他者や世間に投影されてますます引きこもりの傾向を強化してしまう一方、ペルソナを持たない人は自分自身が化け物と化していきます。そして背後でこれを操っているのがアニマ（アニムス）元型ということになります。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-8587944652390140991?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/8587944652390140991/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=8587944652390140991' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8587944652390140991'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8587944652390140991'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_07.html' title='再び顔なしについて'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4070300210736359042</id><published>2010-05-06T21:10:00.002+09:00</published><updated>2010-05-06T21:17:55.237+09:00</updated><title type='text'>再び顔なしについて</title><content type='html'>再び、『千と千尋の神隠し』の顔なしについて。顔なしというのは、見ているととてつもなく多量の料理を飲み込んでいますし、まかない女中さんも銭湯の職員さんも飲み込んでいます。この飲み込むという行為は普通、自我との同化作用と見なすこともできます。飲み込んだものが自我をいわば飾るような錯覚に陥るというか、飲み込んだ対象の力、パワーが自分の中に付け加わると考えるわけです。コレクションの量や質に応じて自分が偉くなったような錯覚に陥るのと似ているかもしれませんが、映画の顔なしの動作はそんな悠長な心境とは程遠く、もっと切迫したもっとアディクション（中毒）的な生理的行動のように見受けられます。飲みこむことがもうすでに病気の症状そのものといった観を呈しています。&lt;br /&gt;　それと、やはり私達の周りにもみんなにいろお菓子や様々なものを配ったり、過剰なサービスをしないではいられない人がいますし、自分を常に格好良く見せたくてうずうずしている人もたくさんいます。常に輝いている自分でないと満足しない人です。そういう人は自分に無理を強いて初めて自分の価値が認められると常に焦燥感に悩まされています。そして、実生活のうえでも体力的にも経済的にも無理がたたって挫折するのです。これこそ顔なしではないでしょうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-4070300210736359042?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/4070300210736359042/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=4070300210736359042' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4070300210736359042'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4070300210736359042'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_4187.html' title='再び顔なしについて'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3055576125010859940</id><published>2010-05-06T20:34:00.004+09:00</published><updated>2010-05-06T20:48:01.871+09:00</updated><title type='text'>宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』</title><content type='html'>　いまさらという感じがしますが、久しぶりに見たので。&lt;br /&gt;　監督の作品ではこれが一番好きです。同時にキャラクターがもっとも立体的に描かれているのではないかと思います。&lt;br /&gt;　私が一番好きなシーンは水の上を電車が走るところです。そこに千（千尋）と顔なしとあとの連中が一緒に乗っています。顔なしが普通に座席に座っているのがなんとも素敵です。&lt;br /&gt;　周囲見渡す限り水、そこに電車が走り、他の客たちはみなシルエットで描かれると見ているだけでヒプノセラピー（催眠療法）に入っていくようです。その上、顔なしという問題の多い存在が効果を嫌が上にも高めています。&lt;br /&gt;　顔なしとは何か、と考えれば考えるほど様々な連想をすることができます。&lt;br /&gt;　自己の中心をもつことのできない現在の若者の象徴のような気がしますし、何でもお金で買えると思い込んでいてそのくせ肝心なものを自分の中に見出すことのできないモンスターのようにも思えます。昔。連続養女殺人事件を起こした宮崎受刑者を連想します。&lt;br /&gt;　ある意味、顔なしとは私達一人ひとりの中にある「影」の元型のような存在かもしれません。「ほしい、ほしい」とばかり言うそういう存在というか人格というかそんなものが私たちの心の中にもいるような。顔なしはただ欲しがるだけではなく、その前にキマエよく金をばら撒きます。顔なしが欲しいのは認められたいという欲求を満たしてもらうことなのかもしれません。そういう意味では貪欲とは程遠いのかもしれませんが、作品では貪欲の権化のように描かれています。&lt;br /&gt;　誰かから、あるいはみんなから認められたい、そのためには何でも「あげる」というのは、ある意味ルール違反なのかもしれません。というのは、自分ではなく自分の所有物を相手に渡すことで自分自身を満足させようとするのですから。自分を満足させるには自分の所有物ではなく、自分そのものを明け渡すべきでしょう。千（千尋）にはそれができた。顔なしにはそれができなかったし理解もできなかった。だから「千が欲しい」と顔なしはいうのです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3055576125010859940?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3055576125010859940/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3055576125010859940' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3055576125010859940'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3055576125010859940'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2010/05/blog-post_06.html' title='宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3096810160868903477</id><published>2010-05-06T20:25:00.002+09:00</published><updated>2010-05-06T20:33:42.847+09:00</updated><title type='text'>映画タルコフスキー監督『鏡』</title><content type='html'>　まだソ連時代の映画です。監督は『惑星ソラリス』や『アンドレイ・ルブリョフ』で有名なタルコフスキーです。&lt;br /&gt;　自伝的な作品といわれています。確かに、作品中には少年時代の監督とその母親との関係が中心に描かれています。&lt;br /&gt;　しかし、全体として筋らしい筋もなく、いわば映像詩のごとく次から次へと幻想的で象徴的なシーンが畳み掛けるように見るものを圧倒します。&lt;br /&gt;　冒頭のシーンはあるどもりの青年が超能力を持つらしい女性セラピストによってどもりを克服する場面が丹念にというか執拗に描かれています。「今私は十分に話し伝えることができる」と完璧に青年が言えたシーンで映画が始まります。BGMはバッハのコラールです。&lt;br /&gt;　見る人によっては、自己の幼年時代・少年時代のこころの傷をうずかせるような作品かもしれません。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3096810160868903477?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3096810160868903477/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3096810160868903477' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' 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/&gt;　最初の方が本の表題の「小さな男の旅」という作品で、小さな男の子が入院しているお母さんのお見舞いに行くために路面電車に乗っていく様子と病院でお母さんと面会する場面を描いています。&lt;br /&gt;　本当に無邪気な男の子の振る舞いに電車の乗客たちも微笑みを絶やせません。&lt;br /&gt;　男の子の振る舞いだけでなく、男の子のせりふも無邪気そのものです。それは私達の子供時代を思い出させるだけでなく、私達の子供時代にも忘れていたけど密かに隠し持っていた純粋な無邪気さに気付かせてくれます。ケストナーはこんな子供の隠し持っている内心の遊び心（それだけに大人以上に痛切な悲しみも）を表現するのに非凡な才能のある作家だと思いました。&lt;br /&gt;　もうひとつの作品『おかあさんがふたり』はお父さんが再婚することになり、新しいお母さんが来る日、兄弟姉妹のうちマーレーネだけが家に戻ってきません。亡くなったお母さんのお墓にいるのです。そこでマーレーネは天国のお母さんに会いに行きます。&lt;br /&gt;　新しいお母さんが迎えに墓場にまでいきます。新しいお母さんは自分の不幸な子供時代のお話をマーレーネにします。マーレーネの気持ちが少し和らぎます。&lt;br /&gt;　まだ４、５歳に過ぎないマーレーネの心のが和らいでいく様子が読む者に伝わってきます。傷ついた心が理解できるのは傷ついた心以外にないことを読者は理解するでしょう。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3571437203759200401?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3571437203759200401/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3571437203759200401' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3571437203759200401'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3571437203759200401'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/07/blog-post_9710.html' title='ケストナー短編『小さな男の子の旅』小峰書店'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' 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/&gt;　この嵐の晩、ナディアとお父さんはどんな決心をするのでしょうか。それはぜひ本を読んでほしいと思います。&lt;br /&gt;　また、車椅子のオリンスキー先生のことにもふれないわけにはいきません。&lt;br /&gt;　オリンスキー先生は数年ぶりに車椅子で教職に復帰しましたが、その最初の時間に黒板に自分は身体障害者と書いたその「身体障害者」という文字が「不具者」という文字に書き換えられていて、ショックを受けます。&lt;br /&gt;　クラスの中に陰湿ないじめっ子がいるのですが、その子の仕業なのでしょう。しかしオリンスキー先生はクイズの大会の四人目の候補者をこのいじめっ子にしようかと迷います。いじめっ子だけどリーダーシップは取れるのではと考えたのです。&lt;br /&gt;　私も教職にありましたが、この思考様式は私にもありました。ちょっとワルだけどクラスの生徒に人気がある、だから、リーダーシップがあるに違いない、という推論の仕方です。この悪いループにはまっていない教師は少くないのかもしれません。正しい少数派を犠牲にして多数派の意見に従うというやつです。クラスの中に自分に反抗する生徒が一人いてその子がクラスの少なくない人数の生徒の支持を得ているとき、先生はその生徒を屈服させるか懐柔させるかのいずれかの選択肢しかないような気持ちに陥るのですが、そこに罠が潜んでいるのです。この罠は「力こそ正義である」という古くからあるひとつの信念なのですが、この信念が正しいものかどうかは各人の経験によるでしょう。&lt;br /&gt;　他にも数多くのエピソードがこの作品の中には収められています。&lt;br /&gt;　ぜひ手にとって読んでみてください。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-1384703231869970112?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/1384703231869970112/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=1384703231869970112' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1384703231869970112'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1384703231869970112'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/07/blog-post_18.html' title='Ｅ．Ｌ．カニグズバーグ『ティーパーティーの謎』岩波少年文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' 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/&gt;　しかし、グレゴリーの心を動かしたのは、マルタのずっと心の奥の方にある「不幸」なのかもしれません。&lt;br /&gt;　有能な設計技師であるお母さん自らが設計した台所はモダンなデザインで統一されていますが、マルタにとってそこには「何もない」のでした。少なくともマルタが子供の頃過ごしたウクライナの家の中と比べて殺風景な場所でした。&lt;br /&gt;　あるときグレゴリーとジャネットとマルタからマルタの家にあった台所のマリアさまの話を聞きます。そのマリアさまの装身具や服には宝石がちりばめられていて「いつもこちらを見ていてくださる」のでした。&lt;br /&gt;　グレゴリーはマルタのために、この「台所のマリアさま」を手に入れようと決心します。もちろん妹のジャネットも協力を惜しみませんでした。&lt;br /&gt;　ストーリーが緊密で一挙に読んでしまいました。&lt;br /&gt;　９歳の男の子がどんなことを思い、決心し、行動するか、自分の子供時代を思い出させてくれる優れた作品でした。&lt;br /&gt;　挿絵も素晴らしかったです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-8802160407505869617?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/8802160407505869617/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=8802160407505869617' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8802160407505869617'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8802160407505869617'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/07/blog-post.html' title='ルーマー・ゴッデン『台所のマリアさま』（Ｃ・バーカー絵）評論者'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-8724085371817227860</id><published>2009-06-26T14:10:00.005+09:00</published><updated>2009-06-28T17:42:48.987+09:00</updated><title type='text'>ウィルキー・コリンズ『月長石』創元推理文庫</title><content type='html'>　同じくコリンズの作品です。&lt;br /&gt;　とっても長いです。７００ページくらいあります。&lt;br /&gt;　インドでなくなった黄色のダイヤモンドを手にしたある家族の物語です。&lt;br /&gt;　よくある話ですが、このダイヤを手にしたものは不幸な運命をたどるという伝説があって、作品はこの伝説を前提にして進められます。&lt;br /&gt;　語り手は、その家の召使（ストレスが溜まるとパイプと『ロビンソン・クルーソー』に逃げる）や姪の信心深い女性や弁護士やその他の人々の報告書や日記や手紙を継時的に並べるという手法で全体のストーリーが進んでいきます。&lt;br /&gt;　さすがにいつまでたっても謎の解明が進展しないので３００ページを超えたところでもう読むのを投げ出しそうになりましたが、せっかくここまで読んだのだからと気を取り直して最後まで読むことにしました。&lt;br /&gt;　そして最後まで読んでよかったと思います。&lt;br /&gt;　やっぱりコリンズらしさが出ていました。&lt;br /&gt;　人生の中の本当の怖さが描かれています。&lt;br /&gt;　前半の軽薄すぎるきらいのある小説の雰囲気はヴィクトリア朝のイギリスだからしょうがないのかなあと我慢して半分諦めていましたが、これも実は計算のうちだったのです。&lt;br /&gt;　最後の１００ページはとっても印象の強いものでした。これは読んでよかった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-8724085371817227860?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/8724085371817227860/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=8724085371817227860' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8724085371817227860'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8724085371817227860'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_8043.html' title='ウィルキー・コリンズ『月長石』創元推理文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-8208034845436465303</id><published>2009-06-26T13:44:00.003+09:00</published><updated>2009-06-26T14:09:39.232+09:00</updated><title type='text'>ウィルキー・コリンズ『夢の女・恐怖のベッド他六篇』岩波文庫</title><content type='html'>　作者のコリンズは１９世紀半ばにイギリスで活躍した小説家です。ディケンズ（『クリスマスキャロル』や『二都物語』で有名な）に認められれてイギリス文壇の寵児となりました。内容やスリラー・サスペンス・探偵モノなどが多く、純文学的というよりも大衆小説的です。&lt;br /&gt;　しかしながら、この短編集に収められている作品はいずれも人間の恐怖を表現しているとはいえ、まったく根拠のない、ただ怖がりたい人だけにウケルようなホラーではなく、きちんと当時の社会的背景を踏まえたうえで、因果関係が明確になりうる恐怖を描いている点で、コリンズは現代でも読まれ得ることを証明しています。&lt;br /&gt;　たとえば表題のひとつとなっている短編『恐怖のベッド』ではある賭博場で一夜を明かす「私」が天蓋つきのベッドに圧殺されそうになる恐怖を描いています。ただやみくもに理由なくベッドに圧殺されそうになるのであればそれもひとつの恐怖であるかもしれませんが持続性を持ちませんし他人にそれを伝えても奇談のひとつとして受け流されるのがおちです。しかし、この作品では自動人間圧殺装置たる「恐怖のベッド」が意図的に賭博場の管理人に設置されているという種明かし自体が恐怖の、しかも持続する、余韻を読者に与えるのです。&lt;br /&gt;　そのほか、『夢の女』では予知夢による恐怖という、それ自体現代科学でも解明できていませんが、しかし現実的には非常に説得力のある根拠に基づいた恐怖が語られています。&lt;br /&gt;　コリンズの職業は弁護士だったそうで、彼の小説作品も新聞その他当時のイギリス社会で実際に起きたことを材料にし小説の骨格としていますので、描かれる「恐怖」の中には自然に社会的・現実的連関が持ち込まれているのです。&lt;br /&gt;　そういう意味でコリンズの小説と対照的なのがポーでしょう。&lt;br /&gt;　アルコール中毒だったポーはしばしば白昼夢を見ました。まさに強迫神経症者であり妄想性人格障害であったポーの作品には私達が普段経験している現実よりもはるかにリアルな恐怖が描かれています。長編『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの冒険』には難破し漂流している人たちが人肉を食べるシーンが描かれていますが、その生々しさといったらありません。&lt;br /&gt;　そこへ行くとコリンズの描く恐怖はいささかゆるく、またなんとなく間延びした感じがなくもありません。しかし、そこに描かれる恐怖の現実や人間の感情は、読者と同じ社会的関係の中におかれているため、きわめて身近できわめて痛切なものとして感じることができるのです。&lt;br /&gt;　そういう意味で、コリンズの描く「恐怖」はそこにのめりこむための恐怖ではなく、恐怖の正体を真正面から見つめているうちにそれにだんだん慣れて立ち向かう希望の可能性を準備しているものなのかもしれません。&lt;br /&gt;　コリンズの魅力はきっとそんなところにあるような気がします。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-8208034845436465303?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/8208034845436465303/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=8208034845436465303' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8208034845436465303'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8208034845436465303'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_26.html' title='ウィルキー・コリンズ『夢の女・恐怖のベッド他六篇』岩波文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-325427316665707260</id><published>2009-06-22T17:17:00.002+09:00</published><updated>2009-06-22T17:30:14.798+09:00</updated><title type='text'>Ｃ．Ｓ．ルイス『ライオンと魔女』岩波少年文庫</title><content type='html'>　ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの四人の子供達が疎開先の年寄りの学者先生のお屋敷のたんすの中からナルニア国に行けることを発見し、ここで気の遠くなるような冒険をします。&lt;br /&gt;　最初にたんすの向こう側にナルニアという国があるのを見つけ出すのはルーシィです。&lt;br /&gt;　兄弟姉妹はおそらく、ピーターとスーザンが年長で、ルーシィとエドマンドが年下のようです。その年下の一人ルーシィがたんすの中をずーっと行くとナルニア国があるのを発見するのですがだれも信じてくれません。エドマンドはその次のチャンスに自分もナルニア国に行くことができました。でもそこでエドマンドは魔女に会ってしまいます。魔女は四人の人間の子供を手に入れればナルニア国の支配を確固としたものにできるので、まずはエドマンドを手なずけるために、エドマンドの大好物のプリンをあげます。しかもそのプリンは食べれば食べるほどもっと食べたくなるプリンでした。エドマンドはプリン食べたさのあまり三人の兄弟姉妹たちをだまして魔女のもとに連れてくることを約束します。エドマンドはいつも馬鹿にされているので、自分が威張りたいのでした。それにプリンも腹いっぱい食べたいのです。意地汚くてよこしまな心がエドマンドの中に巣くっていきます。&lt;br /&gt;　ストーリーは紆余曲折を経て最後はめでたしめでたしで終わりますが、最後の場面がとても不思議です。というのは、魔女が負けてナルニア国が平和を取り戻すことで終わるのではなく、そのまま四人は王位に就き、白髪まじりになり、もはや自分たちの故郷の人間世界の記憶も失うところまで話が続くからです。&lt;br /&gt;　なんだか記憶の深いところまで下っていくような不思議な感覚に襲われます。&lt;br /&gt;　それに、この作品を読んでいると、人間の心の縮図を見ているようで、いくら「はい」と言っても素直に行動できない自分自身のなかにも魔女やエドマンドのような存在がナルニア国に春が来るのを妨げているのだなと思わせます。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-325427316665707260?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/325427316665707260/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=325427316665707260' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/325427316665707260'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/325427316665707260'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_9673.html' title='Ｃ．Ｓ．ルイス『ライオンと魔女』岩波少年文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-6272169256831957140</id><published>2009-06-22T16:52:00.003+09:00</published><updated>2009-06-22T17:17:16.179+09:00</updated><title type='text'>フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』岩波少年文庫</title><content type='html'>　少年トムの悔し涙を流しているところから物語は始まります。弟のピーターがはしかになったのでせっかくの休暇にはピーターと遊べないどころか、狭苦しい住宅街の庭もないおばさんの家をせっかくの休暇を過ごさなくてはならなくなったからです。こんな書き出しを読むと私はとても主人公に共感をおぼえるとともにこの作品をこれだけで好きになりました。&lt;br /&gt;　小学校５，６年の、あの思春期とも子供時代ともいえない微妙な時期。もう子供の純真さは失い、かといって一個の人格として自己主張して自分を守ることも知らないあの時期。悔し涙は日常の出来事でした。&lt;br /&gt;　それにしてもこの作品の印象のひとつに壮大さがあげられます。とても児童文学と思えないくらいです。それは何も荘厳というようなものではなく、物語全体が一分の隙もなく緊密な設計のもとに作られているからでしょう。&lt;br /&gt;　トムは灰色一色の生活しか待っていないと思っていたおばさんの家に思わぬものを発見します。それは１３時を打つアパートの大時計の中に秘密がありました。時計が１３時というありえない時間を打つとき、昼間ただのガレージや汚い溝やさびれた住宅街しか見えない場所にとても魅力的な大きな庭があることを発見したのです。&lt;br /&gt;　そしてトムはここでハティという女の子と知り合いにあります。&lt;br /&gt;　とてもとても広い庭ですから、トムはハティに会いに行くたびにいろいろな遊びをすことができますし、最初弟のピーターと遊ぶことをあれほど楽しみにしていたのに今やおばさんの家で夜中を待つことが日々最大の楽しみになります。&lt;br /&gt;　次第にハティを取り巻く人たちの人間関係やハティの不幸な生い立ちなどを知っていきます。トムにとって休暇をいかに引き伸ばし、おばさんの家から自分の家にどうしたらもどらないですむか、これだけを一途に考えます。&lt;br /&gt;　読み進んでいくうちに、トムの視点ではトムがハティに会いに行っているのに、ハティの側から見ると１９世紀の世界にトムという幽霊（？）が慰めに来てくれているとも見ることができることに気付き始めます。というのはハティは次第に成長しているからです。しかも一晩でもう何歳も年取ったりしていますから。&lt;br /&gt;　ゆっくり静かに進んでいくかに見えるストーリーは最後に近づくにつれてとてもドラマチックになります。&lt;br /&gt;何度でも繰り返し読みたくなる作品です。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-6272169256831957140?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/6272169256831957140/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=6272169256831957140' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6272169256831957140'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6272169256831957140'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_2412.html' title='フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』岩波少年文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3436407806102536324</id><published>2009-06-22T15:39:00.003+09:00</published><updated>2009-06-22T16:52:47.325+09:00</updated><title type='text'>マーガレット・マーヒー『足音がやってくる』岩波書店</title><content type='html'>　８歳のバーニーはある日学校帰りに幽霊と遭遇します。そして、その幽霊はバーニーの正式名である「バーナビーが死んだ。寂しいよ」と言い残して消えていくのです。この衝撃的な出来事からもの物語は始まります。&lt;br /&gt;　比較的短い作品ですが、それだけにマーヒーのエッセンスが凝縮された作品に仕上がっています。&lt;br /&gt;　まだ一回しか読んでいないので、また読んでみたらもっと深い感想を書けるかもしれません。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3436407806102536324?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3436407806102536324/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3436407806102536324' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3436407806102536324'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3436407806102536324'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_8041.html' title='マーガレット・マーヒー『足音がやってくる』岩波書店'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7556674702056836442</id><published>2009-06-22T15:06:00.003+09:00</published><updated>2009-06-22T15:38:38.668+09:00</updated><title type='text'>マーガレット・マーヒー『贈りものは宇宙のカタログ』岩波書店</title><content type='html'>　マーヒーはニュージーランドの作家です。題名を見ると何を連想するでしょうか？彼女の作品にはこんな不思議な題名の作品が多いです。&lt;br /&gt;　主人公はハイティーンのアンジェラとボーイフレンドのティコ。アンジェラは山のてっぺんの不便な家で母一人子一人で住んでいます。アンジェラは魅力的な女の子なのでボーイフレンドには事欠きません。ティコは数多いボーイフレンドの一人なのですが、ティコが卑下するよりずっとアンジェラにとっては大切な存在です。&lt;br /&gt;　アンジェラ母娘も複雑な人間関係の過去を背負っています。同じ町にアンジェラの実父が、しかも裕福な生活を送りながら暮らしています。アンジェラはこの実父に「自分を見てもらいたい」そして願わくば「アンジェラ！」と呼びかけてほしいという願望を強めていきます。&lt;br /&gt;　ティコもティコで、家庭内に問題を抱えています。過干渉で過保護な母親、心理的に不安定な父親。&lt;br /&gt;　ストーリーはアンジェラの父との殺伐とした会見、そしてアンジェラの絶望と放浪、ティコと深まる仲などなど、まるで映画を見ているようなクライマックスへと劇的に進んでいきます。&lt;br /&gt;　ティコはアンジェラよりも背が低くてそのことだけが理由ではないのですが、ひどいコンプレックスを抱えていますし、アンジェラもアンジェラでどこかで孤独感に苦しんでいます。&lt;br /&gt;　十代後半の男女二人が主人公ですので、児童文学とは言えませんが、心の機微がまるで肉眼で見えるような表現の数々は、単なる読書で終わらない感動をこの作品は持っています。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7556674702056836442?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7556674702056836442/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7556674702056836442' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7556674702056836442'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7556674702056836442'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_4876.html' title='マーガレット・マーヒー『贈りものは宇宙のカタログ』岩波書店'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-5335714582382095326</id><published>2009-06-22T14:45:00.002+09:00</published><updated>2009-06-22T15:05:32.668+09:00</updated><title type='text'>高橋和巳『邪宗門』河出書房新社</title><content type='html'>　とても長いです。三部構成になっていて、第一部が戦前、第二部は戦時中、第三部は戦後というように日本の戦中戦後とともに消長を経験するある新興宗教団体をモデルに創作されています。&lt;br /&gt;　その中でも第一部は圧巻です。教祖の女性が江戸末期から明治前半にかけて嘗めた辛酸から教団を形成していくくだり、そして教団に拾われた少年が東北の飢饉を母子で経験する中でついに母親の肉を口にすることによって生き延びるくだりは読むものを震撼させずにはおきません。&lt;br /&gt;　人は自分の理想によって生き、かつ滅びる、という思想が高橋和巳の作品には多くでてきます。この『邪宗門』でも宿命的に滅亡への傾向を最初から内包している人々と時代と教団。しかし、ただ自虐的だと済ますわけにはいかないなにかが、この作品の中にも、他の高橋和巳の作品にも含まれています。それはいかなる左右の思想的傾向を問わず、いかなる思想もその人の生き方の受肉したものであるという基本的な考え方ではないでしょうか。作品中には宗教を毛嫌いする人も宗教にのめりこむ人も、極端な右寄りの人も、極端に左よりの人も、ありとあらゆる思想的傾向の人々が登場しますが、それらの人々の思想を決して「わからない」と蓋をすることはありません。高橋和巳の作品では全ての思想的傾向の中に入って理解しようとする一貫した姿勢が感じられ、この点学ぶべきことがまだまだたくさんあるような気がします。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-5335714582382095326?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/5335714582382095326/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=5335714582382095326' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5335714582382095326'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5335714582382095326'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post_22.html' title='高橋和巳『邪宗門』河出書房新社'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3635290805432657007</id><published>2009-06-22T14:17:00.002+09:00</published><updated>2009-06-22T14:45:11.173+09:00</updated><title type='text'>Ｅ．Ｌ．カニグズバーグ『８００番への旅』岩波少年文庫</title><content type='html'>　カニグズバーグはアメリカのユダヤ系作家です。岩波少年文庫には彼女の多くの作品が出版されています。その中には『ベーグルチームの作戦』のようにユダヤ色が比較的濃いものもありますが、基本的にどの作品もユダヤ教の知識なしに読むことができます。&lt;br /&gt;　マックスという１２歳の少年が再婚する母親の新婚旅行の間、もとの父親と共に過ごす数週間の生活が描かれています。もとの父親、マックスの「お父さん」はラクダのアーメッドと共にその日暮らしを送っています。ラクダのアーメッドに見物人の子供を乗せて小銭を稼ぐという商売です。いろいろなイベント会場に行っては人々が集まるところで商売が成り立つわけで、その日暮しのうえに、定住は望むべくもありません。ですから、マックスのお母さんは彼と離婚することを決意するわけです。&lt;br /&gt;　マックスはどんなに暑くても、自分が通っている名門校の上着を脱ごうとしません。特に、お母さんが嫌っているもとの父親「お父さん」と一緒にラクダと行商の旅をキャンピングカーでしている最中は強情すぎるくらい上着と学校のバッジにこだわります。&lt;br /&gt;　そんなイベント会場のひとつでマックスとお父さんは不思議な人々と出会います。&lt;br /&gt;　特に、リリーとサブリナ母娘との出会いは、マックスにとってこの物語の中で大きな位置を占めます。&lt;br /&gt;　サブリナはいつも「規格はずれの人々」の記事を新聞から切り抜いて持ち歩いています。サブリナのお母さんのリリーは出会うたびに違った職業の人間として登場します。要するに、イベント会場で匿名の会員のふりをすることによって宿泊費と食費などの生活費を稼いでいるわけです。題名の『８００番への旅』の８００番ということとこの辺の生活の仕方が関連してくるわけです。&lt;br /&gt;　カニグズバーグの作品はその題名の意味がしばらくわからないまま話が進行していきます。しかし、海で浅瀬から急に水深が深くなるように、彼女の作品はいつも後半のある地点で深刻な感情の深みに入っていきます。この作品でもこの「８００番」の意味が明らかになるところで、読者の気持ちを揺さぶるような感動を呼び起こします。&lt;br /&gt;　それはマックスがなぜ名門校の制服の上着とバッジにあれほどこだわったか、そしてそれなしの「自分」をさらけだすことに不安を感じるのか、そのこととも関係があります。&lt;br /&gt;　ただあらすじがわかっただけでは終わらない、何度も読み返したくなる作品が彼女の作品なのだと思います。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3635290805432657007?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3635290805432657007/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3635290805432657007' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3635290805432657007'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3635290805432657007'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/06/blog-post.html' title='Ｅ．Ｌ．カニグズバーグ『８００番への旅』岩波少年文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3652596323164831957</id><published>2009-04-26T00:35:00.003+09:00</published><updated>2009-04-26T01:04:39.873+09:00</updated><title type='text'>ミヒャエル・エンデ『夢のボロ市』岩波書店</title><content type='html'>　『果てしない物語』や『モモ』で有名なドイツの作家です。&lt;br /&gt;　８０年代にはいわゆる「緑の党」やエコロジーなどと思想的傾向が似ていて日本でもよく読まれましたし、作品も映画化されました。&lt;br /&gt;　今読むと少し古臭い感もぬぐえませんが、逆にエンデの中の時代の風化をまぬかれる部分を識別しやすいかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　『夢のボロ市』はエンデがリートと言われるドイツ固有の歌の形式にはめ込むために作った詩作品集です。いずれもわびしくせちがらくそれでいてノスタルジーに満ち満ちた私達の日常生活に材料を拾った詩集です。&lt;br /&gt;　『ベルリン天使の詩』という映画の中で、街中をいく人々の心のつぶやきが描かれているシーンがありましたが、『夢のボロ市』を読むとこの映画を見た時の雰囲気がよみがえってきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　夢のボロ市&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;きょう、夢のボロ市へ行ってみた。&lt;br /&gt;世界のはじっこにあって、いろんなものがあった。&lt;br /&gt;盗まれたもの、投げ捨てられたもの、壊れたもの、&lt;br /&gt;中古の、そしてそのまた中古の夢の品。&lt;br /&gt;空とぶ絨毯はイガの穴だらけ、&lt;br /&gt;でこぼこの光輪は、星とおさげ髪、&lt;br /&gt;鍵のない空中楼閣は、錆でボロボロ、&lt;br /&gt;昔かわいがられていた人形も、今は首がない・・・・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そしてそんなガラクタたちのなかに、突然、&lt;br /&gt;ぼくらの愛の、美しい夢も発見したのだ。&lt;br /&gt;その黄金色は曇っていて、夢は壊れていたけれども、&lt;br /&gt;黄金のようにすばらしく－そしてあいかわらず美しかった。&lt;br /&gt;できればそれを返したいと思って、&lt;br /&gt;蒼ざめた男に尋ねてみた。&lt;br /&gt;にやりと歯のない口をあけ、男は僕を見つめ、咳ばらいして、&lt;br /&gt;恥知らずな値段を吹っかけてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なるほどそれだけの価値はある－けれどもぼくは交渉した。&lt;br /&gt;敵はだまっていた、が、折れなかった。&lt;br /&gt;だから夢は買い戻せなかった。&lt;br /&gt;風向きがよくないんだ。もうそんなに豊かじゃないんだ。&lt;br /&gt;結局すごすご手ぶらで引き返したが、&lt;br /&gt;ひとつ知りたいことがあった。&lt;br /&gt;あれは贈られたのか－盗まれたのか－投げ捨てられたのか？&lt;br /&gt;ねえ、きみ、教えて－どうやってあの夢があそこにまぎれこんだのか？&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3652596323164831957?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3652596323164831957/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3652596323164831957' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3652596323164831957'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3652596323164831957'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/04/blog-post_26.html' title='ミヒャエル・エンデ『夢のボロ市』岩波書店'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-6698570640455820232</id><published>2009-04-26T00:00:00.003+09:00</published><updated>2009-04-26T00:35:01.912+09:00</updated><title type='text'>泉鏡花『歌行灯』岩波文庫</title><content type='html'>　冬の桑名（焼き蛤で有名な）の夜を舞台にした鏡花の代表作のひとつです。&lt;br /&gt;　まず、読んでもすぐには意味のわからない語彙でちりばめられています。&lt;br /&gt;　それから、語り口が独特でそれに慣れるのに時間を要しました。&lt;br /&gt;　にもかかわらず最後まで読んだのはその魅力的な世界観のせいでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　桑名の町の別々の場所で語られる男女の身の上話は、最後の場面で「月の光」でひとつになります。&lt;br /&gt;　男の方はかつては謡の名人、故あって師匠により破門宣告を受け謡を禁じられた身の上、女の方は人買いに売られて常に生き死にの狭間にあった身の上。その二人の身の上話は互いに交わりあうことなく語られていきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　とくに、女の方の身の上は、継母に売られてからの話はいくら明治大正の頃とはいえあまりにも悲惨なものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　泉鏡花の作品は一見シュールな世界観を呈しているように見受けられますし、実際に読んでみたことがなかった時にはそのように宣伝されていたような気がします。&lt;br /&gt;　しかし、実際に読んでみると、現実の極限状況の中で生きる人々が経験するきわめて現実的な世界が描かれているような印象を受けました。&lt;br /&gt;　と同時に、描かれている世界は、ユングの言うところの元型にきわめて近く、鏡花の創造するイメージ世界を心に温めているだけで、自分の無意識が刺激されていくのがわかります。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-6698570640455820232?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/6698570640455820232/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=6698570640455820232' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6698570640455820232'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6698570640455820232'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/04/blog-post.html' title='泉鏡花『歌行灯』岩波文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-8146962988270760665</id><published>2009-01-30T04:22:00.003+09:00</published><updated>2009-01-30T04:30:36.997+09:00</updated><title type='text'>『谷川俊太郎詩集』ハルキ文庫</title><content type='html'>とても刺激的な詩を見つけました。題名は「母を売りに」というものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;母を売りに&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;背に母を背負い&lt;br /&gt;髪に母の息がかかり&lt;br /&gt;掌に母の尻の骨を支え&lt;br /&gt;母を売りに行った&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;飴を買い母に舐らせ&lt;br /&gt;寒くないかと問い&lt;br /&gt;肩に母の指が喰いこみ&lt;br /&gt;母を売りに行った&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;市場は子や孫たちで賑わい&lt;br /&gt;空はのどかに曇り&lt;br /&gt;値はつかず&lt;br /&gt;冗談を交し合い&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;背で母は眠りこみ&lt;br /&gt;小水を洩らし&lt;br /&gt;電車は高架を走り&lt;br /&gt;まだ恋人たちも居て&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;使い古した宇宙服や&lt;br /&gt;からっぽのカセット・テープ&lt;br /&gt;僅かな野花も並ぶ市場へ&lt;br /&gt;誰が買ってくれるのか&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;母を売りに行った&lt;br /&gt;声は涸れ&lt;br /&gt;足は萎え&lt;br /&gt;母を売りに行った&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-8146962988270760665?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/8146962988270760665/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=8146962988270760665' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8146962988270760665'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/8146962988270760665'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/01/blog-post.html' title='『谷川俊太郎詩集』ハルキ文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4316680407663599455</id><published>2008-12-21T19:09:00.003+09:00</published><updated>2008-12-21T19:16:06.822+09:00</updated><title type='text'>ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁の詩</title><content type='html'>「苦難にある者たちの告白」&lt;br /&gt;大事をなそうとして&lt;br /&gt;力を与えてほしいと神に求めたのに&lt;br /&gt;慎み深く従順であるようにと&lt;br /&gt;弱さを授かった&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;より偉大なことができるように&lt;br /&gt;健康を求めたのに&lt;br /&gt;よりよきことができるようにと&lt;br /&gt;病弱を与えられた&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;幸せになろうとして&lt;br /&gt;富を求めたのに&lt;br /&gt;賢明であるようにと&lt;br /&gt;貧困を授かった&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世の人々の賞賛を得ようとして&lt;br /&gt;権力を求めたのに&lt;br /&gt;神の前にひざまづくようにと&lt;br /&gt;弱さを授かった&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人生を享楽しようと&lt;br /&gt;あらゆるものを求めたのに&lt;br /&gt;あらゆることを喜べるようにと&lt;br /&gt;生命を授かった&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;求めたものは一つとして与えられなかったが&lt;br /&gt;願いはすべて聞き届けられた&lt;br /&gt;神の意にそわぬ者であるにもかかわらず&lt;br /&gt;心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;【英語版】"A Creed For Those Who Have Suffered"(Answered Prayer)&lt;br /&gt;I asked God for Strength, that I might achieve, I was made weak, that I might learn humbly to obey ...&lt;br /&gt;I asked for health, That I might do greater things, I was given infirmity, That I might do better things...&lt;br /&gt;I asked for riches, That I might be happy,  I was given poverty, That I might be wise...&lt;br /&gt;I asked for power, That I might have the praise of men,  I was given weakness, That I might feel the need of God...&lt;br /&gt;I asked for all things That I might enjoy life,  I was given life,  That I might enjoy all things...&lt;br /&gt;I got nothing that I asked for-But everything I had hope for;     &lt;br /&gt;Almost despite myself, My unspoken prayers were answered.             &lt;br /&gt;I am among all men most richly blessed.&lt;br /&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　  -Unknown Confederate Soldier HERITAGE&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-4316680407663599455?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/4316680407663599455/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=4316680407663599455' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4316680407663599455'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4316680407663599455'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post_767.html' title='ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁の詩'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-5307809835902024088</id><published>2008-12-21T17:09:00.003+09:00</published><updated>2008-12-21T17:14:25.721+09:00</updated><title type='text'>アッシジの聖フランシスコ『平和の祈り』</title><content type='html'>主よ&lt;br /&gt;わたしを平和の道具にしてください。&lt;br /&gt;憎しみのあるところに愛を&lt;br /&gt;争いのあるところに和解を&lt;br /&gt;分裂には一致を&lt;br /&gt;疑いには信仰を&lt;br /&gt;誤りには真理を&lt;br /&gt;絶望には希望を&lt;br /&gt;悲しみには喜びを&lt;br /&gt;闇には光をもたらすことができますように。&lt;br /&gt;主よ&lt;br /&gt;わたしたちがあれこれ求めることをやめ&lt;br /&gt;かえって&lt;br /&gt;慰められようとするよりも慰めることを&lt;br /&gt;理解されようとするよりも理解することを&lt;br /&gt;愛されようとするよりも愛することを&lt;br /&gt;望ませてください。&lt;br /&gt;恵みのうちに恵みをうけ&lt;br /&gt;ゆるしのうちにゆるされ&lt;br /&gt;死のうちに永遠に生きるのだから。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-5307809835902024088?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/5307809835902024088/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=5307809835902024088' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5307809835902024088'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5307809835902024088'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post_21.html' title='アッシジの聖フランシスコ『平和の祈り』'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-983017959062457586</id><published>2008-12-18T22:20:00.005+09:00</published><updated>2008-12-18T22:57:54.203+09:00</updated><title type='text'>早朝ミサ通い</title><content type='html'>　最近早朝のミサに通ってます。&lt;br /&gt;　自分の中の依存心を見つめるためという名目です。&lt;br /&gt;　「わかっちゃいるけどやめられない」という依存心を神様に依存することで解消しようとしているのかもしれません。&lt;br /&gt;　クリスマス前なので聖書朗読は福音書の冒頭の部分です。&lt;br /&gt;　今朝は、マタイによる福音書の二番目の部分でした。&lt;br /&gt;　「父としてのヨセフの資格」という部分です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その一部を抜粋します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「イエズス・キリスト誕生の次第は次の通りである。母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によってみごもっていることがわかった。マリアの夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子孫ヨセフよ、妻マリアを言えに迎え入れるのを恐れるな。その胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。マリアは男の子を産む。あなたはその子をイエズスと名づけよ。その子は自分の民を罪から救うかただからである」。・・・途中省略・・・ヨセフは眠りから覚めると、主の使いに命じられたとおり、妻マリアを家に迎え入れた。そして、マリアが男の子を産むまで、ヨセフは彼女を知ることはなく、その子をイエズスと名づけた。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　キリスト教では（少なくともカトリックでは）クリスマスは神の子イエスの生誕の祭りであり、それは私たちの「こころの中に」イエスが生まれることを意味します。&lt;br /&gt;　こころの中にイエスが生まれるとは、心の中に愛や希望や信仰が生まれるということを意味します。&lt;br /&gt;　しかし、その前提として、「妻マリアを迎え入れ」なければなりません。 &lt;br /&gt;　自分を裏切った配偶者や婚約者ほど受け入れがたいことはありません。&lt;br /&gt;　それを受け入れろ、というのです。&lt;br /&gt;　そうして初めて救い主イエスが生まれるというのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今朝の説教はそんな感じでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;夫に対してであれ妻に対してであれ、人は配偶者に対して無意識のうちに自分の父もしくは母を投影します。&lt;br /&gt;　そしてそれが私のような夫の場合、妻に母親のイメージを投影してしまい、本来なら、母親に向けるべき怒りやいらいらの感情を妻に向けてしまうのです。&lt;br /&gt;　ユング派のことばでいうなら、グレートマザーという母親の恐ろしいイメージに飲み込まれそうになっている状態にあり、グレートマザーに飲み込まれないように闇雲に反抗し暴れるという行為を、妻に対しておこなっていることに気づかないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本来、親への怒り、あるいは親のイメージへの怒りのはずなのに、これを配偶者に向けるところに相手と自分を不幸にする原因があるのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　親への（親のイメージへの）怒りを本来向かうべき方向に向けなおすことが大切だと感じました。&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-983017959062457586?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/983017959062457586/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=983017959062457586' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/983017959062457586'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/983017959062457586'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post_18.html' title='早朝ミサ通い'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3921878243364519591</id><published>2008-12-11T15:07:00.003+09:00</published><updated>2008-12-11T15:21:25.697+09:00</updated><title type='text'>ピーター・ミルウォード先生のお話</title><content type='html'>　先日、上智大学名誉教授のミルウォード先生のお話を聴く機会に恵まれました。シェークスピア研究の碩学ミルウォード先生には、シェークスピアについて質問のある友人のたんなる付録としてついて行ったのです。&lt;br /&gt;　先生のお話は本当にシェークスピアへの真正の愛情にあふれていました。いつまで聴いていても飽きないのです。&lt;br /&gt;　とくに、『リア王』の中のコーデリアの死体を掻き抱くリア王を描く場面を、先生はイエスの死体を抱いている母マリアのピエタの像になぞらえられました。この場面を語るミルウォード先生の目には悲痛な思いとキリスト教の信仰のふたつを私は感じました。&lt;br /&gt;　当時のイギリスでは政治の出来事を事実そのまま描くことは逮捕監禁そしてみずからの死を意味しました。&lt;br /&gt;　イギリス王はカトリックと袂を分かち、カトリックの人々は迫害の憂き目に会っていたのです。&lt;br /&gt;　現在のイギリスのあちこちに残っている教会の廃墟はわずか５年の間に破壊された跡なのだそうです。&lt;br /&gt;　教会の財産はすべて国家に吸収されたのです。&lt;br /&gt;　シェークスピアのこころにはその当時の政治状況と、福音書に描かれるイエスの死と復活の双方が生き生きとしていました。&lt;br /&gt;　しかしそれを直接語ることはできない。&lt;br /&gt;　なので、シェークスピアは中世のデンマークをハムレットに描き、別の時代のスコットランドを舞台に別の作品を、というように「違う時代」を描いているように見えながら、描かれているテーマはイエスとキリスト教のこと、それにシェークスピアが生きていたイギリスの時代状況であった、というのがミルウォード先生の持論でした。&lt;br /&gt;　シェークスピアは絶対にその意味がわからないようにその作品を書く必要があったのです。&lt;br /&gt;　とても説得的で、あまりシェークスピアについて知らない私でも感動しました。&lt;br /&gt;　今度『リア王』を読んでみたいと思いました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3921878243364519591?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3921878243364519591/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3921878243364519591' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3921878243364519591'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3921878243364519591'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post_11.html' title='ピーター・ミルウォード先生のお話'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-3761458293608178712</id><published>2008-12-04T00:10:00.003+09:00</published><updated>2008-12-04T00:24:39.001+09:00</updated><title type='text'>高尾山セッション</title><content type='html'>　今日は高尾山でセッションでした。&lt;br /&gt;　自然のエネルギーを取り入れ、体内の毒をよりスムーズに排出するための練習です。&lt;br /&gt;　どうしても他人のエネルギーに影響されやすい人向けの特別セッションです。&lt;br /&gt;　普通は近所の神代植物園でやることが多いのですが、より効果的に空気のきれいな高尾山に本日は行ってまいりました。&lt;br /&gt;　ＪＲ中央線で高尾まで行き、高尾駅から京王線で高尾山口で下車、あとはもうすぐにケーブルカーです。&lt;br /&gt;　今日は平日なのに天気がよかったせいか、たいへんな賑わいでした。&lt;br /&gt;　おそらく、今年最後の紅葉の見納めのために出かけた人で多かったのでしょう。&lt;br /&gt;　野外セッション後、私たちはクライアントさんと共にサル山でお猿さんたちを見て、名物のトロロ食べに再びケーブルカーに乗りました。&lt;br /&gt;　毎度のことなのですが、サル山のサルを世話していらっしゃる係りのおじさんたちのお話はこれ以上ないほどおもしろかったです。&lt;br /&gt;　園内を掃除するため、このおじさんたちも、サルの集団の序列に組み込まれるそうです。&lt;br /&gt;　４３匹のサルの中に入ると、その人は１番目から４４番目のどこかに自然と位置づけられるそうです。&lt;br /&gt;　しかも、ここは盲点だったのですが、サルは餌をもらったからといって、餌を与える人間を決して「主人」とはみなさないということでした。&lt;br /&gt;　サルにとってそれは自然の恵みと同列なのだそうです。&lt;br /&gt;　人間だけが餌をやるからと言って、恩着せがましくするのでしょうね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ケーブルカーに乗る前に乗り口の売店で名物「天狗焼き」をひとつ食べました。&lt;br /&gt;　中身が黒豆の軽いタッチのたい焼きみたいなお菓子です。&lt;br /&gt;　あつあつで食べるとまた格別でした。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　食事はいつもの橋詰屋で食べました。&lt;br /&gt;　ここのトロロ定食は最高です。&lt;br /&gt;　トロロとごはんと味噌汁と野菜の煮物と漬物といういたってヘルシーな献立なんですが、味が滲みてて美味でした。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-3761458293608178712?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/3761458293608178712/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=3761458293608178712' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3761458293608178712'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/3761458293608178712'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/12/blog-post.html' title='高尾山セッション'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7994121314455971069</id><published>2008-11-29T13:59:00.004+09:00</published><updated>2008-11-29T14:21:33.859+09:00</updated><title type='text'>山中恒『ぼくがぼくであること』実業之日本社</title><content type='html'>　主人公は１２歳。小学校６年生です。父と母と二人の兄、一人の姉、一人の妹の７人家族。&lt;br /&gt;　お母さんはいわゆる「教育ママ」で、テストの点数と宿題と通信簿の成績で「良い子」か「悪い子」か決める。主人公の秀一（ひでかず）は兄弟姉妹の中で唯一「できの悪い子」という烙印を押されていて、悪いことをしようがしまいが帰宅するごとに母親から長時間にわたるこごとを聴かされます。&lt;br /&gt;　特に、妹のマユミは同じ小学校の４年生なので秀一の行動－どんなことで廊下に立たされたかとか宿題を忘れていたかとか－母親のための諜報活動に余念がないので、どんなに隠そうとしても秀一は家に帰れば母親の懲罰にさらされないわけにはいきません。&lt;br /&gt;　そんな秀一が「家出」をしてしまうハメになってしまうところから物語が動き始めます。&lt;br /&gt;　母親は子供のことを絶対に信用していません。子供が親に逆らうなんてありえない話なのです。&lt;br /&gt;　「家出」をしてしまった秀一は血なまぐさい事件に巻き込まれます。殺人事件を目撃してしまうのです。&lt;br /&gt;　家出先で世話になる祖父と娘（秀一と同じ小学校６年生）の家の事情も複雑です。&lt;br /&gt;　だんだん秀一はたくましくなっていきます。本当に自然にそのたくましくなっていく様子が描かれています。&lt;br /&gt;　なので、いったん家出から自宅に戻ったときにはもはや母親の言うなりの子供ではありません。口答えができるようになっていたのです。&lt;br /&gt;　秀一の家出と前後して、「優等生」とみなされていたほかの兄弟姉妹たちも母への反抗心を次第に露にしていきます。&lt;br /&gt;　そうなると母親のヒステリーを誰も止めることができません。&lt;br /&gt;　お父さんとお母さんの夫婦喧嘩も深刻なものになりつつあります。&lt;br /&gt;　この家族は今にも崩壊してしまいそうです。&lt;br /&gt;　秀一は秀一で家出のときにかくまってもらった家の自分と同い年の娘のために彼女のいないと思われていた母親の出現の真偽を確かめるため探偵まがいの仕事もしますし、彼女の「大事な未来」のために本当に命がけの行為に出ます。&lt;br /&gt;　秀一は死なずに済み、再び家に帰ると自分の家は焼け落ちていました。アイロンのヒューズから失火だったそうです。&lt;br /&gt;　最後に秀一が夏代（例の秀一が助けようとした同い年の少女）が作ってくれたぼたもちをショックで倒れている「おふくろさん」に「なぐられるかもしれない」にもかかわらず食べさせようとするところでこの作品は終わります。&lt;br /&gt;　秀一も成長しましたが、秀一のお母さんも「家が焼け落ちる」ことによって「成長」を遂げるであろう、という余韻を残しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昔、「科学と学習」という学研から出ていた「学習」に連載されたいたそうですが、「頑張れ」という声援も多かったそうですが、「こんなもの書くな！」という非難も相当すごかったそうです。&lt;br /&gt;　今読んでもその過激さがひしひしと伝わってきます。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　家族の中の誰が犯人なのではない。&lt;br /&gt;　みんな一緒に成長していくのだなと思いました。&lt;br /&gt;　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7994121314455971069?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7994121314455971069/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7994121314455971069' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7994121314455971069'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7994121314455971069'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_29.html' title='山中恒『ぼくがぼくであること』実業之日本社'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-2492297243473244481</id><published>2008-11-23T23:39:00.002+09:00</published><updated>2008-11-23T23:55:43.047+09:00</updated><title type='text'>神代植物公園散策</title><content type='html'>今日は昼間の時間を利用して近くの神代植物公園まで行ってきました。&lt;br /&gt;先月行ったときにはダリアが咲き誇っていたのですがもう季節はずれなのか、ダリアのコーナーはさびしいものでした。&lt;br /&gt;また、バラ園もひところの華々しい感じは退いて、静かな感じになっていました。&lt;br /&gt;マグノリアのコーナーは何も咲いていませんでした。マグノリアって「もくれん」だっていうことを初めて知りました。もくれんの咲く季節ではありませんものね。&lt;br /&gt;ユリノキはかなり葉っぱを落としていたのですが、その巨大な姿と枝ぶりはまるでゴッホの絵を見るようで心を打つものでした。&lt;br /&gt;ユリノキの枝はいったん下方に伸びて下がっていき、その枝からほぼ垂直に数メートルの小枝が上方に成長するので、それが生命の躍動というか神秘を感じさせます。&lt;br /&gt;かえでともみじのコーナーは人だかりがしていました。紅葉の季節ですから当然といえば当然です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;小一時間、園内を散策したあと、深大寺のそばを食べに行くのに坂を下りました。&lt;br /&gt;今日は三連休とあって非常な混みようでした。&lt;br /&gt;揚げ蕎麦がきと天ぷらそばを喰ったあと、そば粉のクレープを食べました。&lt;br /&gt;クレープはサビンヌさんというフランス人の女性が焼いていて、私はバターシュガーを、家内はハムチーズを食べました。&lt;br /&gt;おいしかったです。本場の味でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;家に帰って、自分の足裏のつぼを押しました。&lt;br /&gt;疲労を取るために、日ごろヒーリングでクライアントさんの足のつぼを押したりします。&lt;br /&gt;そして足の裏が硬いと「疲れが溜まってますね」なんて言っていますが、自分の足を押したらとても硬かったので医者の不養生で自分の疲れには気づいていなかったようです。&lt;br /&gt;足のつぼを押しながら、ロックバンドのクイーンの曲を聴いていたらものすごく感動しました。&lt;br /&gt;足のつぼを押して血の巡りがよくなったせいでしょうか？&lt;br /&gt;身体の循環も悪いと感動することも忘れるのでしょうか？&lt;br /&gt;ちょうど亜鉛が不足して味覚が麻痺していたのと同じかもしれません。&lt;br /&gt;感動するって大切だなと思いました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-2492297243473244481?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/2492297243473244481/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=2492297243473244481' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2492297243473244481'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/2492297243473244481'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_23.html' title='神代植物公園散策'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7691675983178686195</id><published>2008-11-13T01:51:00.003+09:00</published><updated>2008-11-13T02:00:10.985+09:00</updated><title type='text'>小此木啓吾『対象喪失』中公新書</title><content type='html'>　生き別れにしろ死に別れにしろ、愛する対象を失ったときの感情をどう味わうか。それには非常に大きなエネルギーが必要とされるだけに味わうという行為を避けてしまう場合もあります。そして、この悲痛な感情を経験しないまま貯めておくとそれがいろいろな心身の不調をもたらします。本書は人間にとってこの「対象喪失」という経験の重要性が述べられております。&lt;br /&gt;　一番記憶に残った部分はフロイトが自分の父の葬儀に間に合わなかったこと。あれほど敬愛していた父なのに、なぜフロイトはすっぽかしてしまったのか？しかもその晩フロイトは父のごとく慕っていた年長の友人をみずからのまなざしで射殺す夢を見ます。さらに、この夢は父の葬儀に遅刻した「後」ではなく三日「前」に見たのだと自分の本にうそを書きます。&lt;br /&gt;　ここまで自分自身に隠したかった事実とは何か？それはフロイト自身が父を愛していると同時に非常に憎んでいた。それゆえ、父の死は悲しいだけでなく「ざまあみろ」という喜悦の気持ちもあったという事実なのです。これをアンビバレントな気持ちといいますが、これをフロイト自身、自分自身に認めることさえはばかられたのでした。&lt;br /&gt;　この本はほかにもいろいろなエピソードが語られていて、読んでよかったです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7691675983178686195?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7691675983178686195/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7691675983178686195' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7691675983178686195'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7691675983178686195'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_5141.html' title='小此木啓吾『対象喪失』中公新書'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4387686416429742245</id><published>2008-11-13T01:29:00.002+09:00</published><updated>2008-11-13T01:50:56.150+09:00</updated><title type='text'>小此木啓吾『精神分析ノート』日本教文社</title><content type='html'>　初版が昭和３９年、昭和５６年の２７版を読みました。ずいぶん古い本ですが内容は驚くほど新鮮でした。小此木啓吾さんはフロイト著作集の翻訳もされた方で日本のフロイト研究の草分け的存在でした。慶応大学の教授でもあり精神科医でもありました。なのでユング派とは筆致や姿勢がかなり隔たりがあります。中にはあまりにも道義的に縛られすぎているのではというところもありますが、全体的にはフロイトの「すごさ」や「真価」を教えてくれる数少ない著者のひとりだなと思います。&lt;br /&gt;　なかでも本書の冒頭に掲げられている小文「イヤゴーに気をつけろ」というエッセイはとても啓発的なものでした。精神分析は諸刃の剣である。それは癒す方向にも破壊する方向にも同様に働く。特に他人の精神分析をするとき、相手の無意識の中の「暗い衝動」を暴くことに一生懸命になって結局シェークスピアの『オセロ』の主人公のオセロにイヤゴーがオセロの妻デズデモーナの行動の不審な点の裏にある意図をオセロに吹き込むことによってオセロを破滅させたようなことを患者なりクライアントに対して行っているのではないか、いやそうなりがちだと警告しています。&lt;br /&gt;　フロイトは精神分析とは第一に「自分の心」の精神分析であって「他人の心」のではなかったのです。ここのところが一番の誤解のもとでしょう。&lt;br /&gt;　人は相手の暗い箇所に目を奪われがちです。人の不幸は蜜の味だからです。精神分析は相手の行動や意識の背後に悪意や暗い衝動を見たがるのです。ですから小此木さんは「イヤゴーに気をつけろ」と言ったのでしょう。&lt;br /&gt;　もうひとつこの本の中でおもしろかったのは「精神病院には必ず一人や二人の天皇がいる」という表現でした。これはどういうことかというと、自分の血統は図を示していかに自分が〇〇天皇の血筋を引いているか主張する患者さんがいるそうです。しかし、これが正常な人と違うのは、掃除の時間になると看護師さんのところにきて「すみません、雑巾をください」と非常に卑屈な態度で出るそうです。つまりその患者さんは天皇であるときと掃除をするときとでは全然意識の状態が違うのだそうです。これをスプリッティングといいます。ふつうは自分が天皇であるという意識すれば掃除のために雑巾を請うなどということはできません。意識が邪魔をするのです。しかし、本当に狂っている人はそこは場面場面でつながりがなくなって切れてしまうので、その意識が切断されている状態を「スプリッティング」と呼ぶのだそうです。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-4387686416429742245?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/4387686416429742245/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=4387686416429742245' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4387686416429742245'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4387686416429742245'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_789.html' title='小此木啓吾『精神分析ノート』日本教文社'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-1021255966592687181</id><published>2008-11-13T01:17:00.003+09:00</published><updated>2008-11-13T01:28:23.682+09:00</updated><title type='text'>村上春樹『レキシントンの幽霊』文春文庫</title><content type='html'>　またまた村上春樹さんの小説、今度は短編集です。いったいいつになったら『ねじまき鳥』のほうに移れるのでしょうか？&lt;br /&gt;　短編はどうだろうと眉唾ものに思っていましたが、この人は短編もすばらしいことがわかりました。正直おもしろかったです。&lt;br /&gt;　恐怖物です。それも心理的な恐怖が描かれています。スティーブン・キングに似ていなくもないのですが、それよりはるかにリアリスティックだと思います。キングのほうがちょっと現実からはみ出しすぎているように思います。かといって村上さんのほうがファンタジーが少ないかというとそうではありません。はるかにファンタスティックでリアリスティックです。&lt;br /&gt;　『沈黙』という短編は主人公が高校時代にいじめと濡れ衣で苦しむ話ですが、現実の学校では現実にありそうなので、ファンタジーというよりも現実そのままという印象を受けました。&lt;br /&gt;　『氷男』はおもしろかった。いくところまでいっちゃうという感じでした。&lt;br /&gt;　私が一番心に残ったのは最後の『めくらやなぎと、眠る女』という短編です。語られることとそこに語られていない事柄とのコントラストが心地よく心に残ります。&lt;br /&gt;　キングのようでもありポーのようでもあり、はたまたアンブローズ・ビアスのようでもありますが、村上さんの世界観はそのどれでもなく、ほんとにユングに出てくる「アニマ」だとか「アニムス」だとか「影（シャドウ）」だとか人間の無意識の世界の奥深さをよく感じさせるなぁと思いました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-1021255966592687181?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/1021255966592687181/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=1021255966592687181' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1021255966592687181'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1021255966592687181'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_3411.html' title='村上春樹『レキシントンの幽霊』文春文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-6476054246682092037</id><published>2008-11-13T00:40:00.004+09:00</published><updated>2008-11-13T01:16:24.650+09:00</updated><title type='text'>村上春樹『国境の南、太陽の西』講談社</title><content type='html'>　『スプートニクの恋人』の印象が強かったので、同じくらいの長さの小説を読みました。でもこちらのほうはさらに経済的な富裕層の人々が描かれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　大学卒業後、教科書会社で教科書の編修・校閲という地味な仕事に生きがいを感じることなく従事していた主人公は二十台後半に妻となるべき女性と知り合い、その義理の父の融資で青山にジャズバーを開店させ事業を成功させます。やがて青山に４ＬＤＫのマンションを購入し、ＢＭＷで自宅と店を行き来する身分になり、雑誌『ブルータス』にも紹介されます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　それがきっかけで１２歳の頃仲良しだった「島本さん」と再会し、これと言った浮気に身をやつすことのなかった主人公は「島本さん」と「恋に落ちて」いきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　妻の父は自社ビルを有する建築会社のオーナーで政財界とのパイプのため不正株取引に手を出したりしているようですし、主人公自身も青山にある幼稚園に娘をＢＭＷで送り迎えをしていて、同じ幼稚園に送り迎えをしている別の「お母さん」との話題は「紀伊国屋」のバーゲンがどうとかいうような話をし、週末には妻と二人の娘を連れて箱根の別荘に憩う。この作品の初版は１９９２年だからバブル崩壊寸前の頃です。それにしてもここまで宙に浮いたような話だとついていけないというのが正直な感想なのですが、こんなマネーゲームのような生き方を描くことによって当時の世相の雰囲気は伝わってきますし、自分自身は幸せになりたいと思っていて、その中には経済的成功も含まれているはずなのに、実際にそういった成功譚を「青山・４ＬＤＫ・ＢＭＷ・別荘」というふうに見てしまうと、これが本当に幸福な生活なのかと疑ってしまう自分もいます。&lt;br /&gt;　要するにすべてが非常に「あいまい」なのです。&lt;br /&gt;　それは主人公自身の感想でもあるようです。&lt;br /&gt;　それにしても、「島本さん」が主人公の「はじめ君」に要求する「すべて」とはすさまじいものでした。１３０キロか１４０キロで高速を飛ばしていく主人公が握るハンドルを急激にきって激突死することですから。豊かさの中で本当に生きる、ということの難しさを教えられた作品でした。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-6476054246682092037?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/6476054246682092037/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=6476054246682092037' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6476054246682092037'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6476054246682092037'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_1056.html' title='村上春樹『国境の南、太陽の西』講談社'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4069263876201721654</id><published>2008-11-13T00:25:00.005+09:00</published><updated>2008-11-13T00:40:26.544+09:00</updated><title type='text'>村上春樹『スプートニクの恋人』講談社</title><content type='html'>　長編小説。本当は『ねじまき鳥クロニクル』を読もうとしていたのですが、こちらは腰を据えないと読了しそうにないので、短めのものを先に読むことにしました。とにかく文章が風呂場のタイルのように無機質的に思えて読んでいる最中はずっと違和感を感じっぱなしでした。ただ、この小説を読んで「村上春樹の読み方みたいなものがだんだんわかってきました。村上春樹の小説へのチャンネルの周波数があってきたような気がします。この作者は何の変哲もない、特殊なデザインも何もない均一なタイルのように言葉を積み重ねながら、無意識の深いところに下っていくのだなと感じました。&lt;br /&gt;　作品の登場人物が「ぼく」と「すみれ」と「ミュウ」の三名です。そのどれもが、まさに「行くところまで」行き着くという感じで話が進行していきます。全体としてアンニュイな雰囲気が漲っているようで、会話の詳細はきわめて「まじめ」です。「真摯」と言ってもいいくらい。そして会話の「真摯さ」の中に私たちが失って大切なものを感じ取るうちにひそかな感動が下のほうから沸きあがってくるのを感じることができるかもしれません。&lt;br /&gt;　こんな生活ができるのは日本でどれだけいるのだろうと、登場人物の経済的裕福さが一般的でないことは重々に承知しながらも、登場人物たちはそれぞれの「たましい」の極限まで体験せざるを得ない状況に立ち至っていきます。物質的には恵まれているだけに、引き裂かれるたましいの悲痛さがひしひしを伝わってくるそんな作品でした。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-4069263876201721654?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/4069263876201721654/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=4069263876201721654' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4069263876201721654'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4069263876201721654'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_13.html' title='村上春樹『スプートニクの恋人』講談社'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-7074590371878161013</id><published>2008-11-06T23:31:00.005+09:00</published><updated>2008-11-06T23:58:45.977+09:00</updated><title type='text'>山田太一『遠くの声を捜して』新潮文庫</title><content type='html'>　これも河合隼雄さんの対談集で誉められていたので読んでみようと思いました。&lt;br /&gt;　『異人たちとの夏』の印象が圧倒的だったので、こっちのほうは最初は静かな読み出しでした。それにあらすじを若干頭に入れて読み始めたので幾分用心しながら読み進めていましたから。&lt;br /&gt;　主人公は２９歳の「笠間恒夫」という東京入国警備官という設定です。不法就労している外国人の摘発という精神的な重圧に日々さらされる毎日、恒夫もストレスがいっぱいになっていることは容易に予想されるところです。そんな恒夫にあるとき女性の「声」が聞こえます。「ダレ、ナノ？」というその声はまるで地球の反対側からテレパシーで送られてくるように聞こえてきます。無視することのできないこの「声」の呼びかけに恒夫は抗することもできず、逆にこの声の持ち主を捜し始めます。ちょうどこのころ恒夫はお見合いの後の婚約をしようとしている頃で、ひとつのクライマックスが結納の儀式のときにやってきます。この場面は河合隼雄さんと山田太一さんの対談の中で取り上げられたので知ってはいたのですが、まさかこんな場面とは、実際にその部分を読むまではその迫力に触れられなかったのです。この結納の場面で恒夫は自分でもコントロールできないくらい「哄笑」の渦に巻き込まれてしまいます。仲人である上司の憤りや婚約者の父母のとりなしや婚約者の茫然自失などから恒夫の「笑い」の異常さが際立ちます。それはさかさまにも言えるのであって、恒夫だけが正しく周囲の人々こそ結納という儀式の「うそ」や「体面」にしがみついているともいえましょう。&lt;br /&gt;　いずれにせよ恒夫は統合失調症（精神分裂病）の兆候を示しているようにも見えます。しかし、そんな病名よりも、一人の青年の（河合隼雄さんの表現を借りれば）「たましい」に触れることができるそんな圧倒的な読後感が残るのではないでしょうか。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-7074590371878161013?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/7074590371878161013/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=7074590371878161013' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7074590371878161013'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/7074590371878161013'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_8879.html' title='山田太一『遠くの声を捜して』新潮文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-4653061333782272834</id><published>2008-11-06T23:03:00.002+09:00</published><updated>2008-11-06T23:16:42.574+09:00</updated><title type='text'>田無のラーメン屋さん</title><content type='html'>　今日は西武新宿線・田無駅北口の 「らぁめん風味堂」というラーメン屋さんに家内と行ってきました。券売機で買おうとすると、すでに特製のラーメンの券は売り切れだったので（夜の７時時点で）、私は塩ラーメン、家内はミソラーメン、それにそれぞれチャーシューのトッピングを注文しました。初めて入る店であまり期待はしていませんでしたが、塩ラーメンのスープを一口口にしたらけっこうおいしくすーっと喉越しのよいものでした。びっくりしたのはあまりラーメンというものを食べない家内がミソラーメンのスープまで完食したことです。ミソラーメンのスープはいろいろ工夫がなされていて、ごまや胡桃のすりつぶしたものまで入っていました。デトックス（毒だし）にとても効果的に思いました。そういえば塩ラーメンのほうにもよく見ると梅干が沈んでいて、最後に食べるとラーメンの脂分を中和して胃のもたれも少なかったような感じがします。&lt;br /&gt;　私自身は地元で一番好きなラーメン屋さんは武蔵境南口をずーっと南の方に歩いて連雀通り沿いの「大山家」なのですが、今日行った「らぁめん風味堂」も悪くないと思いました。&lt;br /&gt;　店内には「３９時間耐久・・・」という文字が目立つポスターが貼ってあって、店長がサーキット好きなのかなと一瞬思ったのですが、ポスターをよく見るとそれは過去に店を３８時間も閉店なして営業し続けたイベントのポスターでした。よい意味で活力にあふれているラーメン屋さんだと思いました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-4653061333782272834?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/4653061333782272834/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=4653061333782272834' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4653061333782272834'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/4653061333782272834'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_06.html' title='田無のラーメン屋さん'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-6105172241810131422</id><published>2008-11-04T22:32:00.007+09:00</published><updated>2008-11-04T23:38:35.364+09:00</updated><title type='text'>村上春樹『アフターダーク』講談社文庫</title><content type='html'>　村上春樹さんの作品は初めて最後まで読みました。前に『ノルウェーの森』に挑戦したのですが、なんというかその文体に慣れなくって途中で放り出してしまいました。でも、河合隼雄さんと村上さんの対談でやっぱりおもしろそうだということでもう一度挑戦することにしました。&lt;br /&gt;　読後感は、初めて催眠療法を受けた直後のようでした。自分ではそんなに消耗している感覚はないのですが、足もとがふらつくというか。もしくは、きつい麻酔剤が注射された後のようなフラフラ感。身体の芯があるとすれば、その芯のすごく根っこのほうが振動している、そんな読後感でした。&lt;br /&gt;　数年前、ユダヤ系の作家志望の友人が「この本いいよ」と薦めてくれたのが村上春樹さんの『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた本だったのをいまさらながら思い出します。私は日本人なのに彼の推薦の言葉にほとんど何の関心も示しませんでした。&lt;br /&gt;　今回初めて彼の作品を最後まで読んで「タダモノではないぞ」と思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　作品中の人物のせりふ（ほとんど「独白」に聞こえるのですが）から印象に残ったものを幾つか。&lt;br /&gt;　「高橋」が「マリ」に言う言葉&lt;br /&gt;　「で、いったんそういう風に考え出すとね、いろんなことがそれまでとは違った風に見えてきた。裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった・・・・・・たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはただの記号になってします。ただの番号になってしまう」・・・・・・&lt;br /&gt;　長くなってしまったので、もうひとつ「コオロギ」が「マリ」に向けて言う言葉から、&lt;br /&gt;　「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙きれに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、全然役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料・・・・・・それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに行き続けていけるもんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」・・・・・・&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　二箇所引用しました。いずれも前後関係やその場面の状況や話しての境遇・性格描写などがわからないといまいち意味がつかみにくいと思いますが。この作品は深夜の都心を舞台とし、常に「闇」を背景に感じさせます。対話が多いのですが、対話の相手はいるのに、誰もが深い孤独の闇に囲まれているような印象を受けます。&lt;br /&gt;　晩秋の深夜の都心という「闇」の中で「絶望」そのものが次々と紡ぎ出される。延々と「絶望」のつぶやきを聴き続けねばならない、そんな読書でしたが、昔見た『ベルリン・天使の詩』のように、深く心に残る本でした。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-6105172241810131422?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/6105172241810131422/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=6105172241810131422' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6105172241810131422'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/6105172241810131422'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_04.html' title='村上春樹『アフターダーク』講談社文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-1001356911001135917</id><published>2008-11-03T00:03:00.003+09:00</published><updated>2008-11-03T00:21:34.141+09:00</updated><title type='text'>映画『霧の中の風景』テオ・アンゲロプロス</title><content type='html'>　ギリシアの映画です。１９８８年だそうですからかなり古い映画です。映画といえばこれをまず想起します。とても美しく切ない映画です。どっちかというと重いテーマです。&lt;br /&gt;　お母さんがちょっと虐待気味で、小学生高学年くらいの姉と一年生くらいの弟がドイツにいると信じている父に会いに無賃乗車の旅をします。&lt;br /&gt;　旅の途中で旅芸人一座の青年と出会います。&lt;br /&gt;　姉のほうはこの青年に淡い恋心を抱きます。&lt;br /&gt;　ときどき信じられないくらい美しく印象的な情景が映し出されます。&lt;br /&gt;　警察署の前の雪景色とか海中からヘリで発掘される巨大な古代ギリシア彫刻の腕だとか。&lt;br /&gt;　しかし、一番印象に残ったのはどうしても青年の世話になりたくない姉は（というのは、青年がドイツまでの乗車賃を自分のバイクを処分して整えようとするからです）、無言で夜中の国道をすたすた歩いて青年から遠ざかっていきます。「こんな別れ方をしたくない」と青年は何度も呼びかけけます。こらえきれなくなって姉は青年の胸に顔を埋めて泣くのです。&lt;br /&gt;　夜中の－もしかしたら朝が近いのかもしれません－だれもいない国道です。ただ道路の照明だけ限りなく明るく灯っています。&lt;br /&gt;　アンゲロプロスのほかの作品にも、苦悩のきわみは夜中のだれもいない、車一台も通らない、沈黙の国道がよく出てきます。すごく象徴的だと思いました。&lt;br /&gt;　もう１０回以上みていますが、少しも飽きがきません。&lt;br /&gt;　見るたびに何か新しい発見があります。&lt;br /&gt;　アンゲロプロスはひとつの場面を実に長く、まるで舞台劇のようにカメラワークするのが好きなので、それだけ俳優さんもたいへんですが、いまどきの映画にはない味わいがあります。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-1001356911001135917?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/1001356911001135917/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=1001356911001135917' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1001356911001135917'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1001356911001135917'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html' title='映画『霧の中の風景』テオ・アンゲロプロス'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' 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/&gt;　最後に両親と真夏の夕にすき焼きを食べに外食します。両親とのお別れです。&lt;br /&gt;　読んでいてとてもつらくまたとても暖かくなる作品でした。&lt;br /&gt;　ただ、さっきの同じマンションの女性も幽霊なんですが、ちょっと最後は怖かった。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-1004070172860977537?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/1004070172860977537/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=1004070172860977537' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1004070172860977537'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/1004070172860977537'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post_02.html' title='山田太一『異人たちとの夏』新潮文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-2394882627472987383.post-5987246937858835206</id><published>2008-11-02T22:34:00.003+09:00</published><updated>2008-11-02T23:12:46.095+09:00</updated><title type='text'>河合隼雄『こころの声を聴く　河合隼雄対談集』新潮文庫</title><content type='html'>本書は１０名の著名人とユング派の河合隼雄さんとの対談が収められています。河合隼雄さんは日本で初めてスイスのユング研究所のユング派分析者として認定された人です。昭和４０年頃から日本で心理療法の仕事を開始されたのだそうですが、当時はカウンセリングというものへの認知度はゼロに等しく河合さんはあまり語られていないようですが、その苦労は並たいていのものではなかったに違いありません。しかも、スイスとアメリカで習得したユング派の心理療法を日本の風土の中で応用し実践することは河合さんの「創始」と呼んでもよいような気がします。それだけすごい人なのに、対談の中では全然偉ぶっていないところがまたすごいと思います。対談の相手は遠藤周作さんなどの小説家や詩人の谷川俊太郎さん、それに医師や免疫学者など多彩です。みんな一流の人ばかりで一癖も二癖もあるような人たちですが、河合さんは文字通り「自然に」対談されています。それもあたりさわりのないやり方ではなく、自然な感じで始めて徐々に互いの心の奥深くに入っていく様は見事です。ご本人も自分は「ファジーな」人間だとおっしゃっていますが、「ファジー」だからこそ、単にお仕着せの対話に終わらず深いテーマを追求することができるのだと感じました。この本の終わりのほうの作家・村上春樹さんとの対談の中で河合さんは「・・・・・・僕はあの主人公（『ねじまき鳥クロニクル』の）が井戸の中に降りて行くところを読んでいて、僕らの仕事（心理療法の仕事）と似てるなあと思ったんですよ。要するに僕らは何もしないで、ただ井戸の中に入って、人の痛みを感じたりしている。その井戸に入るというのは、他人の意識の中に入るということじゃなくて、自分です。自分の井戸の中に深く入れば入るほど相手の井戸と共有できるわけです。浅かったらダメですね。深く入っていくと、地下水がつながるんです。その地下水がつながるところまで掘らなければいかんわけです。それがなかなか掘れないんですけどね。・・・・・・」&lt;br /&gt;とおっしゃっています。この言葉はとても印象に残っています。&lt;br /&gt;　この本を読むと、河合隼雄さんという人の思想がとてもよくわかります。対談という一見「軽い？」形式の中で深い考えを示すことができるのはすごいです。&lt;br /&gt;　また、この本を読むと、いままで知らなかった作家や本の魅力を知ることもできます。読んでみたい気にさせます。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/2394882627472987383-5987246937858835206?l=mille-feulles-vertes.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/feeds/5987246937858835206/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=2394882627472987383&amp;postID=5987246937858835206' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5987246937858835206'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/2394882627472987383/posts/default/5987246937858835206'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2008/11/blog-post.html' title='河合隼雄『こころの声を聴く　河合隼雄対談集』新潮文庫'/><author><name>ミル・ファイユ・ヴェルト</name><uri>http://www.blogger.com/profile/07217309364596520813</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry></feed>
