2008年11月4日火曜日

村上春樹『アフターダーク』講談社文庫

 村上春樹さんの作品は初めて最後まで読みました。前に『ノルウェーの森』に挑戦したのですが、なんというかその文体に慣れなくって途中で放り出してしまいました。でも、河合隼雄さんと村上さんの対談でやっぱりおもしろそうだということでもう一度挑戦することにしました。
 読後感は、初めて催眠療法を受けた直後のようでした。自分ではそんなに消耗している感覚はないのですが、足もとがふらつくというか。もしくは、きつい麻酔剤が注射された後のようなフラフラ感。身体の芯があるとすれば、その芯のすごく根っこのほうが振動している、そんな読後感でした。
 数年前、ユダヤ系の作家志望の友人が「この本いいよ」と薦めてくれたのが村上春樹さんの『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた本だったのをいまさらながら思い出します。私は日本人なのに彼の推薦の言葉にほとんど何の関心も示しませんでした。
 今回初めて彼の作品を最後まで読んで「タダモノではないぞ」と思いました。

 作品中の人物のせりふ(ほとんど「独白」に聞こえるのですが)から印象に残ったものを幾つか。
 「高橋」が「マリ」に言う言葉
 「で、いったんそういう風に考え出すとね、いろんなことがそれまでとは違った風に見えてきた。裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった・・・・・・たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはただの記号になってします。ただの番号になってしまう」・・・・・・
 長くなってしまったので、もうひとつ「コオロギ」が「マリ」に向けて言う言葉から、
 「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただの紙きれでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙きれに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、全然役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料・・・・・・それでね、もしそういう燃料が私になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに行き続けていけるもんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」・・・・・・

 二箇所引用しました。いずれも前後関係やその場面の状況や話しての境遇・性格描写などがわからないといまいち意味がつかみにくいと思いますが。この作品は深夜の都心を舞台とし、常に「闇」を背景に感じさせます。対話が多いのですが、対話の相手はいるのに、誰もが深い孤独の闇に囲まれているような印象を受けます。
 晩秋の深夜の都心という「闇」の中で「絶望」そのものが次々と紡ぎ出される。延々と「絶望」のつぶやきを聴き続けねばならない、そんな読書でしたが、昔見た『ベルリン・天使の詩』のように、深く心に残る本でした。

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