2011年12月12日月曜日

最近見た映画 ベルイマン『冬の光』

 ベルイマンはスウェーデンの映画監督です。2000年代初頭に亡くなりました。もう戦前から映画を撮っているのですが、ベルイマンらしい映画になるのは1960年代からです。とくに『沈黙』『冬の光』『鏡の中にあるごとく』三部作は人間の苦悩を真正面から取り上げるベルイマンらしさが色濃く表現されています。
 ベルイマンの作品で一番好きだったのは『野いちご』という作品で、これは以前紹介したかもしれませんが、特にその冒頭の老教授の見る夢のシーンはものすごくて一生印象に残るかもしれません。
 さて、この『冬の光』ですが、舞台はスウェーデン寒村です。主人公は神父(スウェーデンは新教国ですからプロテスタントではないかと思うのですが、どうもミサの儀式をやっているようなのでカトリックの神父のように思えるのです。未確認です)で、しかもその神父は人間的に弱く、悩みを抱えています。信者の中の一人の女性はどうも神父の愛人のような存在ですし、ある若夫婦の妻のほうが夫の様子がおかしいので少し話しをしてほしいと頼んで相談に乗るのですが、神父は自分が現在抱えている苦悩を吐露ししまいには泣き出してしまい、逆に問題を抱えている自分の信者から慰められる始末です。しかも、その信者さんはその直後猟銃を口にくわえて自殺してしまいます。
 神父は自殺現場に向かいますが、警察の現場検証の都合上一度警察にもどらなくてはならないということで神父が死体の見張り役を言いつかります。自分の司牧上の失敗で自殺を遂げた信者の死体のそばに一人っきりで立ち尽くさなければならないのです。その上、さきほど夫の様子がおかしいと相談を持ちかけたその夫の妻のところにもこの事件の顛末を知らせに行かなくてはなりませんでした。
 さて、ミサの時間がやってきます。
 教会の会堂には神父の愛人しかいません。いつも神父に批判的な態度で接し、神父を見下しているオルガン奏者の伊達男は、今日はミサは休みだろと決め付けます。
 控え室に座っている神父のそば教会の鐘を鳴らす係りの男-彼は全身を神経痛に侵されている身障者です-が神父の隣に座り、その朝神父にした質問の答えがわかったと報告します。十字架につけられたイエスの苦しみとはなんだったかのか、という問いかけです。
 鐘つき男の答えは、自分自身神経痛で24時間痛みを感じている。イエスの苦痛はせいぜい3,4時間だろう。イエスの苦しみはそのような苦しみではなかった。むしろ、誰も自分の苦しみを理解しなかった孤独の苦しみではなかろうか。最後には神さえもイエスを見捨てたと感じた。この孤独の苦しみこそイエスの苦しみの本質ではないだろうか。こういっている鐘つき男のそばで座っている神父の額には、白黒の映像の中でも、はっきりと脂汗が流れているのが見えます。
 こうして、神父は自分の愛人と、鐘つき男の二人きりしかいない教会でミサを定刻どおりに開始するのでした。

最近見た映画

最近見た映画について報告します。
 まずジャン=リュック=ゴダールの『映画史』です。これは1a、1bから始まり、4a、4bで終わる(と思われる)全部で8編からなる「映画」です。なぜに「」つきの「映画」なのかというと、それはドキュメンタリーでもなければ、通常のストーリーのある映画でもなければ、さりとていわゆる「実験映画」でもないからです。まだ全部みたわけではないですが、そのうちの一本を見ましたが、わずか40分くらいの長さですので、すぐ見終わるのですが、見終わった時点でまた最初から見たくなります。なので、もう4,5回見ました。それでも足りない感じがしますので、おそらく今後さらに4,5回みることになるでしょう。
 内容は、これまでに公開された映画(古いものはリュミエール兄弟あたりから、新しいものでもせいぜい70年代くらいのものでしょうか。まだ検証していません)、のモンタージュでありコラージュになっています。しかも、著作権があるのかどうかわかりませんが、ゴダールはそれらの映画の各シーンを自由自在に切り刻んで、中にはゴヤだとかマネだとかフェルメールだとか絵画が挿入され、正直「いったいこれは何なの?」という反応でした。「???」の反応しか生じないのです。
 私は字幕なしで見たのですが、合間合間にやさしいフランス語の字幕(スローガンに似ています)や朗読がBGMとして流れます。むしろ、これらの朗読のほうがメインで映像は副次的な効果として利用されているとみなすことも可能です。
 私は映画評論の詳しいことはわかりませんが、このゴダールの『映画史』は大きな衝撃でした。
 「言葉」というものを私たちはふだん真剣に聴いていないことを気付かされました。
 どういう理由で衝撃を受けたのかまだ整理されていないですが、芸術の最先端、アヴァンギャルドという意味での短命な衝撃なのではなく、思索を必要とするような衝撃でした。それだけに、人間存在の根源を問うだけの力をこの作品は持っており、それだけに普遍性を持つ作品と感じました。

2010年8月21日土曜日

催眠療法とリーディングの違いについて

    カウンセリングと催眠療法との違いについては前回尻切れトンボになってしまいましたが、若干述べてみました。

 もちろん通常のカウンセリングにも利点はありますし、クライアントさんのもつ問題の種類によって通常のカウンセリングが適している場合が少なくありません。

 しかしながら、通常のカウンセリングでの、主に共感と傾聴、それにクライアントさんの言った言葉やフレーズの繰り返し(ペーシング)だけではどうしても足りない場合があります。

 通常のカウンセリングでは基本的にクライアントさんに対して忠告や忠言はしないことになっています。表面的にはその時々のクライアントさんの問題解決に資するようにめますがいくらよい忠告をしたところでクライアントさんの抱える問題の根本解決には繋がらないのです。つまり、クライアントさんが要求しているのは、表面の要求とその底に深い要求との二重になっているということです。

 忠告はクライアントさんの表面の要求に答えを提供するものですが、クライアントさんにとっては問題の根源は深く無意識に根ざすものですから、こっちの無意識の方の要求に耳を貸すものでなくては持続的でないのです。

 それに具体的な事柄やモノを要求しているのではなく、その事柄やモノを欲求する無意識の方の要求や声のほうが大事なのです。

 しかしながら、分析心理学の祖ユング自身は彼自身のクライアントであるある神経症の青年にそのときその青年が続けていた中年女性との不倫を即座にやめることが青年の神経症を治癒する方法だと述べたにもかかわらず、そう言われた途端、その青年はユングのところにこなくなったそうです。これはカウンセリングにおける忠告の無効性を証明してもいますが、同時に、カウンセリングは人間の無意識を扱うものですが実際にはその無意識というのは日常生活の具体的な人間関係や物質的な生き方と非常に固く結びついていることを証ししています。

 催眠療法においては、過去の幼児期などに起こったトラウマ的な体験やそのときの感情を思い出すことで、現在支障をきたしている生活を回復したり治癒したりすることを目標としています。フロイトが「反復強迫」と名付けた理論がここ催眠療法では実際に生かされていると考えられます。

 すなわち「反復強迫」というのは虐待を幼児期にうけた人が成人後も虐待をうけやすい人間関係に自ら知らず知らずのうちに自分の身をおいてしまう無意識の自発的行動のことを指します。他人から見ると本人が意識して好きでやっているように見えますが、本人にしてみれば、自分の無意識でやっていることですから、あたかも多重人格者における他の人格がかってな行動をやらかして主-人格があとで困るといったケースと似ていうるかもしれません。

 「反復強迫」は自分の本当に嫌なことを本人が真に気づくまで同じような体験を繰り返し繰り返し本人に繰り広げる、巻き込む、という心の仕組みなのですが、これが続くと無意識に不幸な人生を繰り返すことになり、催眠療法で過去の「反復強迫」の元になっているトラウマ的体験を思い起こすことで、この不幸の根っこを断ち切ることが可能で、それまでの悪夢のような人生から、真に前向きな希望を持てる人生へと変換をはかることが叶う可能性が出てくるのです。

 ただ、催眠療法では基本的には、クライアントさんがよりスムーズに過去の出来事を思い出していただくためにひたすらリラクゼーションに時間をかけます。クライアントさんによっては、リラックスすることそれ自体に罪悪感を感じてしまったり、リラックスする必要性さえ無感覚になってしまっている方も少なくありません。無意識のうちにリラックスすることに抵抗感が存在するようです。自分に鞭打って自分を罰することが心のバランスを取るように心のメカニズムができあがっていたり、リラックスすることで思わず過去のトラウマを思い出す可能性が生じるのを防ぐ目的ももっているのかもしれません。なので、リラクゼーションと言っても生やさしいものではなく、私にとって催眠療法を行うときは文字通り冷や汗・脂汗をかきながらクライアントさんにこれでもかこれでもかと何重にも深いリラクゼーションに導くように努力しています。

 催眠療法を実際に行うときには、リクライニングチェアに横たわって暗くした部屋で行うため、ある意味クライアントさんに「さあ思い出すぞ」と構えさせることになり、普通の椅子に腰掛けて通常の話をしているときには思い出せるのに、リラクゼーションをして退行催眠に入るのでよけいに何も思い出せなくなる人が若干います。それにはよほど大きな心の負荷がかけられていて思い出すものが重い場合には起こりやすいものです。しかし、何度か試していくうちに、思い出す状況が次第に具体的になり思い出す場所や人々や自分の立ち位置なども奥行きと匂いその他の五感を伴なうものとなります。そして深い感情も蘇っていきます。
 催眠療法では基本的に私のほうからあれこれ価値判断することは一切控えます。それがよかったか悪かったかはご本人次第で、しかもご本人の経験や認識の深さによって「人間万事塞翁が馬」のように善悪が入れ替わったりします。

 家内がやっているリーディングの方は基本的に何も道具立ては必要とせず部屋の明かりもそのままです。普通のいすで特にリラクゼーションの誘導も行わず、いつのまにか深いトランスにクライアントさんは入っていきますが、おそらくご本人も自分がトランスに入っているかどうかなど気づいておられないと思います。ごくごく普通の日常の会話からセッションは進んでいきますので。

 大きく催眠療法と異なるのは、完全に100%無意識の深みに忘却されている記憶(それだけにやっかいでその人の人生を根本から支配しているのですが)を家内の特殊能力とでもいうのでしょうか、気の力というのでしょうか、よく説明はできませんが、いずれにせよクライアントさんの心の世界に入って思い出せない部分や障害となっている箇所をスムーズにして(どうやって?かはわかりません)ご本人にまざまざと思い出す手助けをすることにあります。ですから、オーラリーディングなどで「あなたの前世は☓☓です」とか「あなたの未来はこうなります」とクライアントさん自身、寝耳に水のような話を投げかけるのではないのです。どなたかあるクライアントさんが「それではそれはダンブルドア校長がハリー・ポッターに彼の過去のビジョンを見せるようなものなのか」と聞かれましたが、まさにそれが一番近いといえましょう。

 効力としてはうちでやっている催眠療法よりも家内がやっているリーディングのほうがはるかに強い効力をもっていると思います。ただそれだけに、「なかったことにしよう」とか「これはみなかったことにしよう」という心理が後で働き、よほどの覚悟やよほど人生において追い詰められていないと、元の木阿弥のなる可能性も高いです。

 また身体の状態も心に影響されて病気になることも最近では認められてきていますが、リーディングの結果、良い結果をもたらす可能性も考えられますが、それはあくまで結果オーライで、霊感商法のようにあらかじめこれを施すと病気がなおりますよなどとお約束することはできません。

 リーディングの場合はふつうのリビングでふつうの椅子に座って普通の会話のなかで進めていくのですが、そのためにひとつだけクライアントさんにやってもらうことがあります。それは「グラウンディング」といって、自分の身体の各チャクラに意識をあわせてもらうことです。それは実際にやってみるとそんなに難しくもなく、練習なども必要ありません。

 リーディングについては次回もう少し詳しく書いてみます。

通常のカウンセリングと催眠療法の違い

  通常のカウンセリングといっても、現在の日本では心理療法もいろいろな流派がありそのすべてを知っているわけではありませんので、ここでは私が知っている限りでのカウンセリングというものと催眠療法との違いについて書いてみたいと思います。

 現在の日本でもまだまだロジャースの影響が強いような気がします。1950年から1960年ころにアメリカから日本に入ってきたカウンセリングの方法というかひとつのスタンスです。ロジャースによれば、共感しながらクライアントのいうことを傾聴していくことでクライアントの抱えている問題に対するクライアント自身の見方に変化が生じ、自ずと解決の道をクライアントの方で見つけていくというものです。正確なロジャース学派の主張していることと違うかもしれませんが、基本的にロジャース学派のカウンセリングではカウンセラーは(これは他の流派でも同じですが)クライアントに対して意見や忠告などは禁止されます。ただ「そうですね」とか「そうだったんですか」とか「つらいですね」とかあとはクライアントの言ったフレーズ(文章)をそのまま繰り返したり、とかクライアントと同じあゆみをするだけです。ここで大切なのはクライアントのあゆみを一歩も先んじてはならないということで、それでもクライアントに共感したり、一生懸命に聞いたり、クライアントの言うことを繰り返したりすることで、クライアント自身の心の底から自分自身の問題に取り組もうとする活力が湧き上がってくる、もしくは湧き上がってくるのをひたすら待つ、ということが大事なのです。

 ですから、ロジャース学派のカウンセリングは短くても半年以上、長くて3年も5年も時間がかかります。もちろんその間にクライアントさんのほうがいやになって逃げ出さなければの話ですが。

 今日の日本、特にスクールカウンセラーの態度はだいたいこのロジャース学派の「共感」と「傾聴」に基づいているのではないかと思います。

 たしかに、カウンセラーとして共感しながら傾聴していくことや、クライアントさんのいうことをペーシング(クライアントの言葉を繰り返す)していくのには非常な体力精神力が要ります。そして、「あなた(クライアント)の感じているのはこういうことではないでしょうか」とクライアントさんの感じている感情や「感じ」をカウンセラー側で表白するのもひとつの名人芸ではあります。カウンセラーとクライアントはひとつ空間のなかでクライアントの語る言葉や問題を共有することでひとうの心に溶けこもうとしているのかもしれませんし、そこにロジャース学派の「ダイナミックさ」が存するのかもしません。
 ただ、クライアントの立場から見ると、ただ共感されているだけでは物足りない、いや、それどころか、カウンセリングを重ねれば重ねるほど、なにか不満のようなものが溜まってくるように感じるかもしれません。

 いつまでたっても核心の部分に入っていけない、いつまでたっても周辺に立ち止まっているという不満がそれなのかもしれません。
 つまり空回りになってしまっている場合、ロジャース学派の場合、そのまま核心に到達するのを逆に妨げているケースも考えられるのではないでしょうか。

 催眠療法(ミル・ファイユ・ヴェルトのリーディングも)では、まずは、感情をテーマにしますので、その人が今何を考えているか、もしくは、今を何を感じそれをどういう言葉で表現してその表現されたものを主題にするというよりも、その人の無意識がリアルタイムで指し示しているものに立ち向かうことができます。ただ、出てきた感情がクライアントさんの無意識の奥深く隠されたものであると、なぜにこの感情なのかクライアントさん自身にも自分の日常の意識と結びつけることが不可能になってしまいます。そこに強烈な拒否反応も生まれるのですが、拒否反応が強ければ強いだけ無意識の核心に入っているという証拠でもあるのかもしれません。
 私たちは日常の意識のなかで、無関係なものを一緒くたに結びつけたりしません。たとえば、靴とマンガ本。この両者は一般的にはナンセンスですが、ある特定の個人にとってはとても含蓄深い意味をもつかもしれません。しかし、その人が自分の無意識のなかに深く入っていかないならば、自分の体験に根ざすものにもかかわらず、この「靴とマンガ本」という取り合わせは意味から疎外されたままなのです。

 ロジャース学派の、つまり通常のカウンセリングの方法では、言葉を使っての表現であるために、この無関係なものの結びつきという発想がなかなか出にくいのかもしれません。論理化していくことで、自分の心の奥深くにあるもに到達するのが容易でないのです。

子供にときに読んだ漫画について

 小学校5,6年のころでしょうか、私は漫画に読みふけるようになりました。活字の本は動物図鑑・鉱物図鑑・昆虫図鑑などのたぐいは暗記するほど読み込んでいたのですが、小説などの活字の本はどうしても読み進めることができませんでした。

 そんななかで漫画は絵が中心でしかも刺激的な内容が盛り込まれていますからどんどん読み進みほとんど中毒と化していました。

 いまから40年くらいまですからテレビゲームもビデオもなかった時代です。漫画は格好の夢中になる道具でした。

 その頃読んだ漫画のなかに永井豪という漫画家の『デビルマン』というのがありました。いまでも講談社から全5巻で手に入ります。

 この『デビルマン』という作品はその後テレビアニメ化されたのでご存知の方も多いかもしれません。しかし、テレビアニメの『デビルマン』は毎回登場する敵と闘うヒーロー物になっているので子供向けのつくりになっていますが、漫画本の方の原作は内容が小学生の子供にはとても咀嚼できない世界観になっていてそれゆえ子供の心に強烈な世界観を植えつけてしまうおそれもあります。

 ストーリーは不動明という高校生が飛鳥了という科学者の息子に説得されてみずからデビルマンになってしまうというところから始まっています。

 作品によれば、悪魔とは人類の誕生以前に栄えていた種族で、一度滅びてしまったが、今再び地球を人類の手から取り戻すために蘇ってきたという設定になっています。「悪魔」はもともとその生存のために様々な動植物と合体し異様ないきものになって地球上に生き延びてきたが、今度の場合も、「悪魔」はテレポーテーション(瞬間移動)をつかって人類に乗り移ってくるというのです。ただし主人公の不動明だけは悪魔の意識に乗っ取られず、自分固有の意識を保持することができたため、いわば悪魔人間という新しい存在になれたと作品のなかでは描かれています。

 「悪魔」というのは『デビルマン』のなかでは、まるで恐竜のように地球上に一度栄えては絶滅した生物種のような存在です。ですから、「悪魔」だから邪悪なる存在というわけではないのです。

 ところが作品中では、悪魔が乗り移ってくる状況は飛鳥了という不動明の親友が創りだすために、わざと血潮が噴き出るような乱闘シーンを招来するようなまねをします。「悪魔は血を好む」というのです。

 そして実際、デビルマンを倒すために送り込まれる悪魔はどれも異様な姿をとっています。大人の私にさえその異様さが感じられますますから、子供時代に読んだときにはどれだけ強烈な印象を残したか計り知れません。

 たとえば人間を殺さずにたべてしまう亀の姿をした悪魔など。食べてしまった人間の顔は甲羅に表面化しているのです。しかも痛みなどまだ感じるのでこの悪魔に食べられた人間は生きているのと変わりありません。その犠牲者のひとりに不動明がかわいがっていた知り合いの「さっちゃん」という少女もいました。不動明=デビルマンはそれでもこの悪魔を圧倒的な力で倒すのですが、そうすることで、甲羅にいる人々は、さっちゃんも含めて皆完全に死んでしまうのです。

 今でもこの部分を読んだときの割り切れなさ、ただの恐怖とは違う、ある種やりきれなさが蘇ります。

 他の場面ですが、妖獣シレーヌというデビルマンを窮地に陥れた悪魔(女)は最後デビルマンに倒されそうになったとき、カイム(カムイのパロディか?)というサイの姿の悪魔が登場してシレーヌの助っ人となります。カイムはシレーヌを好きらしく、そのためには自分の命も全然惜しがりません。シレーヌは止めようとしますが、カイムはさっさとしっぽで自分の頭を切り取ってシレーヌが自分と合体してより強力になるよう促します。

 デビルマンはこれによって瀕死のところまで追い詰められますが、最後はシレーヌ自信が生き絶えてしまい、デビルマンは命拾いをするのです。

 この場面も、小学校の5、6年生だったときの私の心に異様な印象を残していまもそれがそのまま残っています。

 まず、作品でいうとデビルマンは主人公なので正義の味方のはずで、そのデビルマンと戦っているシレーヌをはじめ悪魔軍団は悪者のはずなのに、その悪者のシレーヌを助けるためにカイムは自分の命を捨てて顧みない、ということに納得できなかったのです。子供心にこの筋書きはどこかおかしいと感じはしたのですが、それがどこなのか理論的に指摘することができないので、ストーリーをそのまま受け入れるしかありません。先程の「ジンメン」と呼ばれる亀スタイルの悪魔が登場する話にしても、「おれを殺すとこいつらもみんな死ぬんだぞ」と脅すジンメンに対して、デビルマンは「でもおまえも死ぬんだろ」と言い返し強烈なパンチをジンメンの甲羅に浴びせさっちゃんも死んでいきます。この場面も何度も読み返しましたが、そのつど心に刺がささったままでどうしてもカタルシス(浄化)の作用はありません。

 一般的に芸術作品の目的はカタルシス(浄化)の作用にあることをアリストテレスという哲学者は述べていますが、『デビルマン』にはこのカタルシス(浄化)の作用は一切ありません。どんなに憎たらしい悪者をやっつけても後味の悪さが残るのです。それは質の悪い油で揚げたトンカツが胃にもたれた状態に似ているかもしてませんが、それ以上の不気味さがこの『デビルマン』にはあります。

 たとえば、ツトム君という少年に犬をけしかけている実母の話があります。すでに両親とも悪魔に乗っ取られているので、ツトム君は帰宅したあと、父と母(の悪魔)の餌食とされてバラバラに切り刻まれるのですが、今でいうと幼児虐待の警告とも批評とも読めるのかもしれませんが、あまりにあっさりツトムくんはバラバラにされてしまうので、たんなる残酷さしか感じられません。かといってそれはスプラッタームービーのようなただの残酷なシーンの露骨な連続というのでもないのです。何かひとつの思想のようなもので自分自身が毒されていくようなそういう後味の悪さがあるのです。

 『デビルマン』も全5巻ありますから、今紹介した以外にまだまだいろいろな話がありますが、ここでは、最後の方の場面からもうひとつ。

 最後の方で、悪魔が人類に対して総攻撃を開始します。いたるところで悪魔が人間に乗り移ってきて街は混乱に陥ります。そしてデビルマンである不動明が下宿していた牧村家の人々もデビルマンである不動明をかくまっていたということで人類の「魔女狩り」の対象にされます。デビルマン助けに来るのが遅く、牧村夫妻は魔女狩りの拷問で惨殺されてしまいます。
 そして拷問の機械の陰に隠れていた人間が、作品のなかではとても邪悪に描かれています。本物の悪魔以上に邪悪で狡猾な性格ともつものとして描かれています。これに対してデビルマンは怒りの炎を燃え上がらせ一瞬のうちに殺してしまうのです。

 その後、デビルマンは牧村家に向いますが、唯一その人を守るためならと考えていた恋人牧村美樹もすでに近所の人々の魔女狩りの犠牲者になってしまっていたのです。このときもデビルマンは最大限の怒りの炎で人々をあっというまに殺してしまうのです。デビルマンの怒りの形相は線画で2ページにわたる広いスペースのなかに小さく描かれていて子供時代にはとても印象的でした。それで私は小学校の授業中にこの場面のデビルマンの似顔絵をノートに落書きしていたものです。

 最後は飛鳥了というデビルマンの親友が実は悪魔の親玉でサタンその人にほかならず、そのうえ、サタンは両性具有だったので不動明=デビルマンを愛してしまったということなのですが、悪魔軍団のサタンとデビルマン軍団との最終戦争になります。いわば黙示録の戦いです。

 最後は人間でさえ登場しなくなり、正義の味方という立場も完全になくなってしまいます。(牧村美樹が血祭りに挙げられたので人類に未練はないのでしょう)

 デビルマンである不動明はデビルマンになる以前は気の弱い喧嘩などできない弱虫でした。それがデビルマンとなってからはやたらけんかは強くなり(当たり前ですが)デビルマンに変身しても、正義のためというより血生臭いことに快感を覚えるから戦っているように描かれています。といって完全な野獣ではなくきちんと人間の理性は保っているのです。

 それに、魔女狩りが始まってから描かれている人間は不動明の知り合い以外はみなサイテーの性格をもつ人間として描かれています。読んでいてこんな人間ならいないほうがいいと思うようになるほどです。

 そして、サタン率いる悪魔軍団にしてももともと地球の先住民ですから人類から地球を奪い返したい気持ちに共感もできます。

 サタンである飛鳥了の不動明に寄せる思慕の念も理解できます。
 でもこれらがいっしょくたにされて提供されるとどこに足場を於けばよいのかわからなくなってしまいます。

 あるのはただ世界の破滅の戦争である黙示録的な戦いと、デビルマンの怒りの炎、それに、あまりにもあっさりと惨殺されてしまう主要な登場人物(恋人、牧村美樹も含めて)たちです。

 そこにはただただ残酷さ、残酷な行為によって引き起こされるデビルマンの怒りの炎、それに人類すべてが滅びてしまってもいいという考え方です。

 『デビルマン』にはある意味、倫理的なルールがもともと存在していないのに、あたかも登場人物たちは倫理的なルールで行動しているようなみせかけがところどころでなされています。実際にあるのは暴力と無責任な怒りの応酬だけですが、それを非常に雑な仕方で道徳的な苦悩とか道徳的なしばり、それに理性的な考え方で非常に下手なしかた(わざとのように)まとわれているのです。

 『デビルマン』の作品世界のなかにのめり込むと小学校くらいの子供だとイチコロで価値観が崩壊してしまうかもしれません。なにせ私自身が小学校の5,6年生のころに読んだときにひとつの世界観として私の心のなかに定着してしまいましたから。どこかがおかしいのですがどこがおかしいの指摘できないので、その作品に浸透しているものの見方を受け入れてしまうのです。

 ある意味、私の心のなか怒りと怒りのあとのことは一切知らないという無責任さがそのままこの作品のなかに表現されていて、自分の心のなかにあったものがそこに表現されているのですから批判できなかったのかもしれません。

 デビルマンの行動原理は、基本的に反倫理的です。非常に恣意的でそのときそのときの衝動で動きますが、自分では道徳的に行動しているように、つまりなんらかの理性的な理由があって行動しているように描かれています。この漫画では、世界が滅びることさえデビルマンにとってはどうでもいいことなのです。

 ただ思春期の子供は、やはり同じような思考傾向をもつような気がします。つまり自分の衝動だけがすべてで世の中がそのために滅んでも構わない、というような極端なところまでいくのが思春期前期の子供の傾向です。しかし、たいていの子供はそういう自分の考えと実際に接触する世界との軋轢から様々なことを学んでいき、この衝動が生のままは実らないことを知っていきます。

 『デビルマン』の世界観はこの外界と接触と軋轢の要素が非常に欠けているように思えます。主要人物があまりにもあっさり惨殺されるシーンなどはとくにそう感じます。

 私にとってこの『デビルマン』という作品は私が思春期に入る頃に大きな影響を受けてまだ完全にはその影響から抜け切れていないのですが、今あらためてこの作品について考えるとまだまだいろいろ洗脳されている点が出てきそうです。

                      

2010年6月10日木曜日

子供の人生は誰のもの?

 私たちには様々な生き方の方針というのがあります。哲学者のカントはこれを「格率」と呼びました。「格率」というのは個々人の生き方の傾向一般のことを指します。たとえば「人を見たら泥棒と思え」というのも「格率」の一つです。このような「格率」をもとにして生きるとそれなりの生き方ができますが、他方でそれ以外の生き方を認めないという制限も同時に受けます。人によっては博愛主義を「格率」とする人もいます。それによって困窮している人や助けを必要としている人に手をさしのべるのは立派な人ですが、もしこのような生き方を他人に強制するようなことがあれば、それは支配の一形態であり、他者の存在を否定することでもあります。
 とくに一見立派に見える「格率」をもって子供を育てれば良い子に育つわけではありません。むしろ、その子の個性や存在そのものを否定して親の「格率」をわが子に押し付けることになるので、子供は自分の存在を認められていないという感覚だけを強くもちます。
 「格率」というのは、すべての事柄がそうであるように、それを担う人の人生経験が血肉化したものでなければ単なる束縛に堕してしまいます。
 人を縛る一種の方法なのです。
 誰かに自分の人生観を押し付けることは、どんなに素晴らしく高尚な人生観に見えても、それは暴力の一種なのです。
 愛情というのは、その人の存在に何の要求もすることなくすべてをありのままに認めることにあるのではないでしょうか。
 親の愛情のもとに、親の「格率」を子供に適用することは、子供が持つ「自分」を圧殺し締殺すことになるのです。
 ただし、そのようなことをしている親自身が、自分の子供時代に同じことを親からされたわけで、意識のうえでは何の疑問ももつことなく今度はわが子に適用しているので、これに気づく親は例外的といえます。

2010年5月23日日曜日

ある日曜日の朝

 ある日曜日の朝早く起きて犬の散歩をしました。なぜかしらいつもとは違うことに気付きました。何かが違うのにその何かがわかりません。道路の真ん中に遊歩道があり、暖かい季節ですので様々な草花が成長し小さな花を咲かせています。そのときその「何か」ということに気付きました。私はこれらの雑草や名もない花とは違う存在であるということに気付いたのです。これらの遊歩道に育ってはやがて枯れていく草花は私とは違う存在としてせいいっぱい成長しようとしていることに気付きました。あたりまえなのにいままでこんなにはっきりと自分とは違う存在が身の回りにあるということに気付かずに生きてきました。