最近早朝のミサに通ってます。
自分の中の依存心を見つめるためという名目です。
「わかっちゃいるけどやめられない」という依存心を神様に依存することで解消しようとしているのかもしれません。
クリスマス前なので聖書朗読は福音書の冒頭の部分です。
今朝は、マタイによる福音書の二番目の部分でした。
「父としてのヨセフの資格」という部分です。
その一部を抜粋します。
「イエズス・キリスト誕生の次第は次の通りである。母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によってみごもっていることがわかった。マリアの夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子孫ヨセフよ、妻マリアを言えに迎え入れるのを恐れるな。その胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。マリアは男の子を産む。あなたはその子をイエズスと名づけよ。その子は自分の民を罪から救うかただからである」。・・・途中省略・・・ヨセフは眠りから覚めると、主の使いに命じられたとおり、妻マリアを家に迎え入れた。そして、マリアが男の子を産むまで、ヨセフは彼女を知ることはなく、その子をイエズスと名づけた。」
キリスト教では(少なくともカトリックでは)クリスマスは神の子イエスの生誕の祭りであり、それは私たちの「こころの中に」イエスが生まれることを意味します。
こころの中にイエスが生まれるとは、心の中に愛や希望や信仰が生まれるということを意味します。
しかし、その前提として、「妻マリアを迎え入れ」なければなりません。
自分を裏切った配偶者や婚約者ほど受け入れがたいことはありません。
それを受け入れろ、というのです。
そうして初めて救い主イエスが生まれるというのです。
今朝の説教はそんな感じでした。
夫に対してであれ妻に対してであれ、人は配偶者に対して無意識のうちに自分の父もしくは母を投影します。
そしてそれが私のような夫の場合、妻に母親のイメージを投影してしまい、本来なら、母親に向けるべき怒りやいらいらの感情を妻に向けてしまうのです。
ユング派のことばでいうなら、グレートマザーという母親の恐ろしいイメージに飲み込まれそうになっている状態にあり、グレートマザーに飲み込まれないように闇雲に反抗し暴れるという行為を、妻に対しておこなっていることに気づかないのです。
本来、親への怒り、あるいは親のイメージへの怒りのはずなのに、これを配偶者に向けるところに相手と自分を不幸にする原因があるのかもしれません。
親への(親のイメージへの)怒りを本来向かうべき方向に向けなおすことが大切だと感じました。
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