2011年12月12日月曜日

最近見た映画 ベルイマン『冬の光』

 ベルイマンはスウェーデンの映画監督です。2000年代初頭に亡くなりました。もう戦前から映画を撮っているのですが、ベルイマンらしい映画になるのは1960年代からです。とくに『沈黙』『冬の光』『鏡の中にあるごとく』三部作は人間の苦悩を真正面から取り上げるベルイマンらしさが色濃く表現されています。
 ベルイマンの作品で一番好きだったのは『野いちご』という作品で、これは以前紹介したかもしれませんが、特にその冒頭の老教授の見る夢のシーンはものすごくて一生印象に残るかもしれません。
 さて、この『冬の光』ですが、舞台はスウェーデン寒村です。主人公は神父(スウェーデンは新教国ですからプロテスタントではないかと思うのですが、どうもミサの儀式をやっているようなのでカトリックの神父のように思えるのです。未確認です)で、しかもその神父は人間的に弱く、悩みを抱えています。信者の中の一人の女性はどうも神父の愛人のような存在ですし、ある若夫婦の妻のほうが夫の様子がおかしいので少し話しをしてほしいと頼んで相談に乗るのですが、神父は自分が現在抱えている苦悩を吐露ししまいには泣き出してしまい、逆に問題を抱えている自分の信者から慰められる始末です。しかも、その信者さんはその直後猟銃を口にくわえて自殺してしまいます。
 神父は自殺現場に向かいますが、警察の現場検証の都合上一度警察にもどらなくてはならないということで神父が死体の見張り役を言いつかります。自分の司牧上の失敗で自殺を遂げた信者の死体のそばに一人っきりで立ち尽くさなければならないのです。その上、さきほど夫の様子がおかしいと相談を持ちかけたその夫の妻のところにもこの事件の顛末を知らせに行かなくてはなりませんでした。
 さて、ミサの時間がやってきます。
 教会の会堂には神父の愛人しかいません。いつも神父に批判的な態度で接し、神父を見下しているオルガン奏者の伊達男は、今日はミサは休みだろと決め付けます。
 控え室に座っている神父のそば教会の鐘を鳴らす係りの男-彼は全身を神経痛に侵されている身障者です-が神父の隣に座り、その朝神父にした質問の答えがわかったと報告します。十字架につけられたイエスの苦しみとはなんだったかのか、という問いかけです。
 鐘つき男の答えは、自分自身神経痛で24時間痛みを感じている。イエスの苦痛はせいぜい3,4時間だろう。イエスの苦しみはそのような苦しみではなかった。むしろ、誰も自分の苦しみを理解しなかった孤独の苦しみではなかろうか。最後には神さえもイエスを見捨てたと感じた。この孤独の苦しみこそイエスの苦しみの本質ではないだろうか。こういっている鐘つき男のそばで座っている神父の額には、白黒の映像の中でも、はっきりと脂汗が流れているのが見えます。
 こうして、神父は自分の愛人と、鐘つき男の二人きりしかいない教会でミサを定刻どおりに開始するのでした。

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