初版が昭和39年、昭和56年の27版を読みました。ずいぶん古い本ですが内容は驚くほど新鮮でした。小此木啓吾さんはフロイト著作集の翻訳もされた方で日本のフロイト研究の草分け的存在でした。慶応大学の教授でもあり精神科医でもありました。なのでユング派とは筆致や姿勢がかなり隔たりがあります。中にはあまりにも道義的に縛られすぎているのではというところもありますが、全体的にはフロイトの「すごさ」や「真価」を教えてくれる数少ない著者のひとりだなと思います。
なかでも本書の冒頭に掲げられている小文「イヤゴーに気をつけろ」というエッセイはとても啓発的なものでした。精神分析は諸刃の剣である。それは癒す方向にも破壊する方向にも同様に働く。特に他人の精神分析をするとき、相手の無意識の中の「暗い衝動」を暴くことに一生懸命になって結局シェークスピアの『オセロ』の主人公のオセロにイヤゴーがオセロの妻デズデモーナの行動の不審な点の裏にある意図をオセロに吹き込むことによってオセロを破滅させたようなことを患者なりクライアントに対して行っているのではないか、いやそうなりがちだと警告しています。
フロイトは精神分析とは第一に「自分の心」の精神分析であって「他人の心」のではなかったのです。ここのところが一番の誤解のもとでしょう。
人は相手の暗い箇所に目を奪われがちです。人の不幸は蜜の味だからです。精神分析は相手の行動や意識の背後に悪意や暗い衝動を見たがるのです。ですから小此木さんは「イヤゴーに気をつけろ」と言ったのでしょう。
もうひとつこの本の中でおもしろかったのは「精神病院には必ず一人や二人の天皇がいる」という表現でした。これはどういうことかというと、自分の血統は図を示していかに自分が〇〇天皇の血筋を引いているか主張する患者さんがいるそうです。しかし、これが正常な人と違うのは、掃除の時間になると看護師さんのところにきて「すみません、雑巾をください」と非常に卑屈な態度で出るそうです。つまりその患者さんは天皇であるときと掃除をするときとでは全然意識の状態が違うのだそうです。これをスプリッティングといいます。ふつうは自分が天皇であるという意識すれば掃除のために雑巾を請うなどということはできません。意識が邪魔をするのです。しかし、本当に狂っている人はそこは場面場面でつながりがなくなって切れてしまうので、その意識が切断されている状態を「スプリッティング」と呼ぶのだそうです。
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