作者のコリンズは19世紀半ばにイギリスで活躍した小説家です。ディケンズ(『クリスマスキャロル』や『二都物語』で有名な)に認められれてイギリス文壇の寵児となりました。内容やスリラー・サスペンス・探偵モノなどが多く、純文学的というよりも大衆小説的です。
しかしながら、この短編集に収められている作品はいずれも人間の恐怖を表現しているとはいえ、まったく根拠のない、ただ怖がりたい人だけにウケルようなホラーではなく、きちんと当時の社会的背景を踏まえたうえで、因果関係が明確になりうる恐怖を描いている点で、コリンズは現代でも読まれ得ることを証明しています。
たとえば表題のひとつとなっている短編『恐怖のベッド』ではある賭博場で一夜を明かす「私」が天蓋つきのベッドに圧殺されそうになる恐怖を描いています。ただやみくもに理由なくベッドに圧殺されそうになるのであればそれもひとつの恐怖であるかもしれませんが持続性を持ちませんし他人にそれを伝えても奇談のひとつとして受け流されるのがおちです。しかし、この作品では自動人間圧殺装置たる「恐怖のベッド」が意図的に賭博場の管理人に設置されているという種明かし自体が恐怖の、しかも持続する、余韻を読者に与えるのです。
そのほか、『夢の女』では予知夢による恐怖という、それ自体現代科学でも解明できていませんが、しかし現実的には非常に説得力のある根拠に基づいた恐怖が語られています。
コリンズの職業は弁護士だったそうで、彼の小説作品も新聞その他当時のイギリス社会で実際に起きたことを材料にし小説の骨格としていますので、描かれる「恐怖」の中には自然に社会的・現実的連関が持ち込まれているのです。
そういう意味でコリンズの小説と対照的なのがポーでしょう。
アルコール中毒だったポーはしばしば白昼夢を見ました。まさに強迫神経症者であり妄想性人格障害であったポーの作品には私達が普段経験している現実よりもはるかにリアルな恐怖が描かれています。長編『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの冒険』には難破し漂流している人たちが人肉を食べるシーンが描かれていますが、その生々しさといったらありません。
そこへ行くとコリンズの描く恐怖はいささかゆるく、またなんとなく間延びした感じがなくもありません。しかし、そこに描かれる恐怖の現実や人間の感情は、読者と同じ社会的関係の中におかれているため、きわめて身近できわめて痛切なものとして感じることができるのです。
そういう意味で、コリンズの描く「恐怖」はそこにのめりこむための恐怖ではなく、恐怖の正体を真正面から見つめているうちにそれにだんだん慣れて立ち向かう希望の可能性を準備しているものなのかもしれません。
コリンズの魅力はきっとそんなところにあるような気がします。
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