2010年5月6日木曜日

宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』

 いまさらという感じがしますが、久しぶりに見たので。
 監督の作品ではこれが一番好きです。同時にキャラクターがもっとも立体的に描かれているのではないかと思います。
 私が一番好きなシーンは水の上を電車が走るところです。そこに千(千尋)と顔なしとあとの連中が一緒に乗っています。顔なしが普通に座席に座っているのがなんとも素敵です。
 周囲見渡す限り水、そこに電車が走り、他の客たちはみなシルエットで描かれると見ているだけでヒプノセラピー(催眠療法)に入っていくようです。その上、顔なしという問題の多い存在が効果を嫌が上にも高めています。
 顔なしとは何か、と考えれば考えるほど様々な連想をすることができます。
 自己の中心をもつことのできない現在の若者の象徴のような気がしますし、何でもお金で買えると思い込んでいてそのくせ肝心なものを自分の中に見出すことのできないモンスターのようにも思えます。昔。連続養女殺人事件を起こした宮崎受刑者を連想します。
 ある意味、顔なしとは私達一人ひとりの中にある「影」の元型のような存在かもしれません。「ほしい、ほしい」とばかり言うそういう存在というか人格というかそんなものが私たちの心の中にもいるような。顔なしはただ欲しがるだけではなく、その前にキマエよく金をばら撒きます。顔なしが欲しいのは認められたいという欲求を満たしてもらうことなのかもしれません。そういう意味では貪欲とは程遠いのかもしれませんが、作品では貪欲の権化のように描かれています。
 誰かから、あるいはみんなから認められたい、そのためには何でも「あげる」というのは、ある意味ルール違反なのかもしれません。というのは、自分ではなく自分の所有物を相手に渡すことで自分自身を満足させようとするのですから。自分を満足させるには自分の所有物ではなく、自分そのものを明け渡すべきでしょう。千(千尋)にはそれができた。顔なしにはそれができなかったし理解もできなかった。だから「千が欲しい」と顔なしはいうのです。

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