2010年5月6日木曜日

再び顔なしについて

再び、『千と千尋の神隠し』の顔なしについて。顔なしというのは、見ているととてつもなく多量の料理を飲み込んでいますし、まかない女中さんも銭湯の職員さんも飲み込んでいます。この飲み込むという行為は普通、自我との同化作用と見なすこともできます。飲み込んだものが自我をいわば飾るような錯覚に陥るというか、飲み込んだ対象の力、パワーが自分の中に付け加わると考えるわけです。コレクションの量や質に応じて自分が偉くなったような錯覚に陥るのと似ているかもしれませんが、映画の顔なしの動作はそんな悠長な心境とは程遠く、もっと切迫したもっとアディクション(中毒)的な生理的行動のように見受けられます。飲みこむことがもうすでに病気の症状そのものといった観を呈しています。
 それと、やはり私達の周りにもみんなにいろお菓子や様々なものを配ったり、過剰なサービスをしないではいられない人がいますし、自分を常に格好良く見せたくてうずうずしている人もたくさんいます。常に輝いている自分でないと満足しない人です。そういう人は自分に無理を強いて初めて自分の価値が認められると常に焦燥感に悩まされています。そして、実生活のうえでも体力的にも経済的にも無理がたたって挫折するのです。これこそ顔なしではないでしょうか。

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