2010年5月8日土曜日

影について

私たちは自分の性格や思い出の中でこれだけは思い出したくないというようなものを一つか二つは必ず持っています。それはたとえば散歩中や夜ベッドに入って眠れないときやドライバーでねじを回すだけのような単純作業をしているときにふと心に蘇ります。しかもかなり生々しい仕方でまるで眼前に今繰り広げられているようにそのときの状況が再現されるとき、喉下から苦いつばがこみ上げてくるような不快感に包まれてしまいます。どこにも逃げ出すことができないのでそういうときはただ再現されるシーンを見るだけで精一杯ということさえあります。
 私が今思い出すのは中学時代に新任の顧問の先生から勧められて入った吹奏楽部への出席率があまりにも悪いので止めさせられるのですが、やめるという意思表示ができずうじうじしていたとき学校の渡り廊下でばったりその先生でぶつかってついにはやめるといわなくてはならないところまで追い詰められたシーンを思い出します。
 そこまで追い詰められても私は「やめたい」という意思表示を明確にすることができず顧問の先生から「調子いい奴だなおまえは」と言われたことがグサッと心に突き刺さったことを覚えています。
 こんな思い出したくないシーンは普段は心の奥深くしまいこんであります。
 こんないくつもの記憶や気持ちが無意識の中に影の部分を構成します。ユングはこれをシャドウ(影)と呼びました。
 影は自分のものとは認めがたいので容易に他人に投影され、その人の悪口を言うことで自分の影に気付くことをより困難にさせます。
 こうして影を互いに投影しあうことで人間関係はさらに「ねばねばした状況」に陥っていくものです。
 そして、影に飲み込まれた人間はカフカではありませんが「蜘蛛」のような存在に「変身」を遂げるのではないかとイメージできます。というのは、蜘蛛はネバネバした糸を自分の餌食に巻きつけこれを食するからです。
 影に覆われ飲み込まれた人間関係は互いに蜘蛛と化した人間同士で互いを餌食にするためにネバネバした糸を巻き付け合う関係で、出口が発見不可能になる関係であるということができるのではないかと思います。
 ル=グウィンの『ゲド戦記』第一巻『影との戦い』はこんなやっかいな性質をもつ影の本質をよく表現していると思います。ぜひ読んでいただきたい作品です。

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