2010年5月11日火曜日

見えない無意識、認められない無意識

 無意識というと、何か得体のしれない心の奥深くの領域のように錯覚しがちです。もちろん、私達の心の奥深くには私達の知らない世界が広がっているかもしれません。夢に以前見た風景が後にどこかの旅先で確認できるというデジャヴュ体験がその例ですし、夢の中で肉親や親しい人が現れていろいろなことを告げてくれたというような不思議な経験も否定することができません。飼っている犬や猫などのペットが危険を回避するのを手伝ってくれたというようなケースさえ世界中どこにでもあります。また犬猫などの哺乳類だけでなく植物と話ができる人もいるそうです。
 ユングは「集合的無意識」と言って、私達の心の底の底のほうではすべての生物・無生物とつながりをもつだけでなく、有史以来のすべての生物の意識が人間の意識の下には広がっていると考えました。さらに、心の中でおきることとは因果関係を持たずに、それでいて心の変化と軌を一にして外部世界で何かがおきるとも言いました。これを「同時性(シンクロニシティ)」と呼びます。
 そのように無意識の世界は夢や超常現象に象徴されるような深淵な世界を私達に連想させますが、それと同時に、無意識は私にもっとも身近なものでもあります。無意識は私達の身体でもあるのです。
 無意識が私達の身体というのは、私達の意識しない行動は身体を通してなされるからです。自然にやってしまったというのは、まるで生理的現象のようです。確かに、ひざをハンマーで叩かれれば、ひざを自動的に反射運動を起こして瞬間的に動きますし、強い光を当てられれば瞬時にまぶたが閉じられます。それとは別個に「自然にやってしまう身体の運動」には生理的現象では説明できない自動的な動きがあります。
 たとえば、何か解答に困ったときに頭をかくとか、あるシチュエーションでは必ずお腹が圧迫されるような感じがするとかあるテーマの話になると眠くなるとかいらいらするとか、などがそうです。
 しかし、それらの身体の反応は本来、意識が担うべき事柄を肩や胃や手が分担しているのです。こうして私達は意識にとってやっかいな事柄から逃げるために身体にそれらの荷物を押し付けます。これが無意識の身体の動きで、それは身体の動きでありながら実は意識の、つまり、こころの動きに他なりません。
 私たちは自分の眼でみることが案外苦手です。ちょうどアメリカ大統領が透明の原稿台で透明の原稿を読むように、そしてテレビ画面に映っている大統領の姿は視聴者である国民を直接みているようですが、実際には「原稿をみているのです」。
 私達はそれとおなじく、皆自分の「原稿」という枠を見ているのであって世界そのものをみているわけではありません。このような「枠で世界を」見ている、というのでもありません。世界の方はほとんど見ないで「枠を」見ているのです。
 要するに、眼はあるけど何もみていない、ということになります。
 見ていないほとんどの部分は無意識の「投影」となりますから、この世は無意識だらけとなります。
 仏教用語でいえば、マーヤ(無明)ということになります。
 世界そのものをみることがいかに大切かということになります。
 世界そのものを見ることは、単に見ることに過ぎないように聞こえますが、世界そのものを自分の眼で見、自分の耳で聞くことは、それ自体で自分自身を無明の世界から救うことにつながるような気がします。

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