2010年6月10日木曜日

子供の人生は誰のもの?

 私たちには様々な生き方の方針というのがあります。哲学者のカントはこれを「格率」と呼びました。「格率」というのは個々人の生き方の傾向一般のことを指します。たとえば「人を見たら泥棒と思え」というのも「格率」の一つです。このような「格率」をもとにして生きるとそれなりの生き方ができますが、他方でそれ以外の生き方を認めないという制限も同時に受けます。人によっては博愛主義を「格率」とする人もいます。それによって困窮している人や助けを必要としている人に手をさしのべるのは立派な人ですが、もしこのような生き方を他人に強制するようなことがあれば、それは支配の一形態であり、他者の存在を否定することでもあります。
 とくに一見立派に見える「格率」をもって子供を育てれば良い子に育つわけではありません。むしろ、その子の個性や存在そのものを否定して親の「格率」をわが子に押し付けることになるので、子供は自分の存在を認められていないという感覚だけを強くもちます。
 「格率」というのは、すべての事柄がそうであるように、それを担う人の人生経験が血肉化したものでなければ単なる束縛に堕してしまいます。
 人を縛る一種の方法なのです。
 誰かに自分の人生観を押し付けることは、どんなに素晴らしく高尚な人生観に見えても、それは暴力の一種なのです。
 愛情というのは、その人の存在に何の要求もすることなくすべてをありのままに認めることにあるのではないでしょうか。
 親の愛情のもとに、親の「格率」を子供に適用することは、子供が持つ「自分」を圧殺し締殺すことになるのです。
 ただし、そのようなことをしている親自身が、自分の子供時代に同じことを親からされたわけで、意識のうえでは何の疑問ももつことなく今度はわが子に適用しているので、これに気づく親は例外的といえます。

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