2010年8月21日土曜日

子供にときに読んだ漫画について

 小学校5,6年のころでしょうか、私は漫画に読みふけるようになりました。活字の本は動物図鑑・鉱物図鑑・昆虫図鑑などのたぐいは暗記するほど読み込んでいたのですが、小説などの活字の本はどうしても読み進めることができませんでした。

 そんななかで漫画は絵が中心でしかも刺激的な内容が盛り込まれていますからどんどん読み進みほとんど中毒と化していました。

 いまから40年くらいまですからテレビゲームもビデオもなかった時代です。漫画は格好の夢中になる道具でした。

 その頃読んだ漫画のなかに永井豪という漫画家の『デビルマン』というのがありました。いまでも講談社から全5巻で手に入ります。

 この『デビルマン』という作品はその後テレビアニメ化されたのでご存知の方も多いかもしれません。しかし、テレビアニメの『デビルマン』は毎回登場する敵と闘うヒーロー物になっているので子供向けのつくりになっていますが、漫画本の方の原作は内容が小学生の子供にはとても咀嚼できない世界観になっていてそれゆえ子供の心に強烈な世界観を植えつけてしまうおそれもあります。

 ストーリーは不動明という高校生が飛鳥了という科学者の息子に説得されてみずからデビルマンになってしまうというところから始まっています。

 作品によれば、悪魔とは人類の誕生以前に栄えていた種族で、一度滅びてしまったが、今再び地球を人類の手から取り戻すために蘇ってきたという設定になっています。「悪魔」はもともとその生存のために様々な動植物と合体し異様ないきものになって地球上に生き延びてきたが、今度の場合も、「悪魔」はテレポーテーション(瞬間移動)をつかって人類に乗り移ってくるというのです。ただし主人公の不動明だけは悪魔の意識に乗っ取られず、自分固有の意識を保持することができたため、いわば悪魔人間という新しい存在になれたと作品のなかでは描かれています。

 「悪魔」というのは『デビルマン』のなかでは、まるで恐竜のように地球上に一度栄えては絶滅した生物種のような存在です。ですから、「悪魔」だから邪悪なる存在というわけではないのです。

 ところが作品中では、悪魔が乗り移ってくる状況は飛鳥了という不動明の親友が創りだすために、わざと血潮が噴き出るような乱闘シーンを招来するようなまねをします。「悪魔は血を好む」というのです。

 そして実際、デビルマンを倒すために送り込まれる悪魔はどれも異様な姿をとっています。大人の私にさえその異様さが感じられますますから、子供時代に読んだときにはどれだけ強烈な印象を残したか計り知れません。

 たとえば人間を殺さずにたべてしまう亀の姿をした悪魔など。食べてしまった人間の顔は甲羅に表面化しているのです。しかも痛みなどまだ感じるのでこの悪魔に食べられた人間は生きているのと変わりありません。その犠牲者のひとりに不動明がかわいがっていた知り合いの「さっちゃん」という少女もいました。不動明=デビルマンはそれでもこの悪魔を圧倒的な力で倒すのですが、そうすることで、甲羅にいる人々は、さっちゃんも含めて皆完全に死んでしまうのです。

 今でもこの部分を読んだときの割り切れなさ、ただの恐怖とは違う、ある種やりきれなさが蘇ります。

 他の場面ですが、妖獣シレーヌというデビルマンを窮地に陥れた悪魔(女)は最後デビルマンに倒されそうになったとき、カイム(カムイのパロディか?)というサイの姿の悪魔が登場してシレーヌの助っ人となります。カイムはシレーヌを好きらしく、そのためには自分の命も全然惜しがりません。シレーヌは止めようとしますが、カイムはさっさとしっぽで自分の頭を切り取ってシレーヌが自分と合体してより強力になるよう促します。

 デビルマンはこれによって瀕死のところまで追い詰められますが、最後はシレーヌ自信が生き絶えてしまい、デビルマンは命拾いをするのです。

 この場面も、小学校の5、6年生だったときの私の心に異様な印象を残していまもそれがそのまま残っています。

 まず、作品でいうとデビルマンは主人公なので正義の味方のはずで、そのデビルマンと戦っているシレーヌをはじめ悪魔軍団は悪者のはずなのに、その悪者のシレーヌを助けるためにカイムは自分の命を捨てて顧みない、ということに納得できなかったのです。子供心にこの筋書きはどこかおかしいと感じはしたのですが、それがどこなのか理論的に指摘することができないので、ストーリーをそのまま受け入れるしかありません。先程の「ジンメン」と呼ばれる亀スタイルの悪魔が登場する話にしても、「おれを殺すとこいつらもみんな死ぬんだぞ」と脅すジンメンに対して、デビルマンは「でもおまえも死ぬんだろ」と言い返し強烈なパンチをジンメンの甲羅に浴びせさっちゃんも死んでいきます。この場面も何度も読み返しましたが、そのつど心に刺がささったままでどうしてもカタルシス(浄化)の作用はありません。

 一般的に芸術作品の目的はカタルシス(浄化)の作用にあることをアリストテレスという哲学者は述べていますが、『デビルマン』にはこのカタルシス(浄化)の作用は一切ありません。どんなに憎たらしい悪者をやっつけても後味の悪さが残るのです。それは質の悪い油で揚げたトンカツが胃にもたれた状態に似ているかもしてませんが、それ以上の不気味さがこの『デビルマン』にはあります。

 たとえば、ツトム君という少年に犬をけしかけている実母の話があります。すでに両親とも悪魔に乗っ取られているので、ツトム君は帰宅したあと、父と母(の悪魔)の餌食とされてバラバラに切り刻まれるのですが、今でいうと幼児虐待の警告とも批評とも読めるのかもしれませんが、あまりにあっさりツトムくんはバラバラにされてしまうので、たんなる残酷さしか感じられません。かといってそれはスプラッタームービーのようなただの残酷なシーンの露骨な連続というのでもないのです。何かひとつの思想のようなもので自分自身が毒されていくようなそういう後味の悪さがあるのです。

 『デビルマン』も全5巻ありますから、今紹介した以外にまだまだいろいろな話がありますが、ここでは、最後の方の場面からもうひとつ。

 最後の方で、悪魔が人類に対して総攻撃を開始します。いたるところで悪魔が人間に乗り移ってきて街は混乱に陥ります。そしてデビルマンである不動明が下宿していた牧村家の人々もデビルマンである不動明をかくまっていたということで人類の「魔女狩り」の対象にされます。デビルマン助けに来るのが遅く、牧村夫妻は魔女狩りの拷問で惨殺されてしまいます。
 そして拷問の機械の陰に隠れていた人間が、作品のなかではとても邪悪に描かれています。本物の悪魔以上に邪悪で狡猾な性格ともつものとして描かれています。これに対してデビルマンは怒りの炎を燃え上がらせ一瞬のうちに殺してしまうのです。

 その後、デビルマンは牧村家に向いますが、唯一その人を守るためならと考えていた恋人牧村美樹もすでに近所の人々の魔女狩りの犠牲者になってしまっていたのです。このときもデビルマンは最大限の怒りの炎で人々をあっというまに殺してしまうのです。デビルマンの怒りの形相は線画で2ページにわたる広いスペースのなかに小さく描かれていて子供時代にはとても印象的でした。それで私は小学校の授業中にこの場面のデビルマンの似顔絵をノートに落書きしていたものです。

 最後は飛鳥了というデビルマンの親友が実は悪魔の親玉でサタンその人にほかならず、そのうえ、サタンは両性具有だったので不動明=デビルマンを愛してしまったということなのですが、悪魔軍団のサタンとデビルマン軍団との最終戦争になります。いわば黙示録の戦いです。

 最後は人間でさえ登場しなくなり、正義の味方という立場も完全になくなってしまいます。(牧村美樹が血祭りに挙げられたので人類に未練はないのでしょう)

 デビルマンである不動明はデビルマンになる以前は気の弱い喧嘩などできない弱虫でした。それがデビルマンとなってからはやたらけんかは強くなり(当たり前ですが)デビルマンに変身しても、正義のためというより血生臭いことに快感を覚えるから戦っているように描かれています。といって完全な野獣ではなくきちんと人間の理性は保っているのです。

 それに、魔女狩りが始まってから描かれている人間は不動明の知り合い以外はみなサイテーの性格をもつ人間として描かれています。読んでいてこんな人間ならいないほうがいいと思うようになるほどです。

 そして、サタン率いる悪魔軍団にしてももともと地球の先住民ですから人類から地球を奪い返したい気持ちに共感もできます。

 サタンである飛鳥了の不動明に寄せる思慕の念も理解できます。
 でもこれらがいっしょくたにされて提供されるとどこに足場を於けばよいのかわからなくなってしまいます。

 あるのはただ世界の破滅の戦争である黙示録的な戦いと、デビルマンの怒りの炎、それに、あまりにもあっさりと惨殺されてしまう主要な登場人物(恋人、牧村美樹も含めて)たちです。

 そこにはただただ残酷さ、残酷な行為によって引き起こされるデビルマンの怒りの炎、それに人類すべてが滅びてしまってもいいという考え方です。

 『デビルマン』にはある意味、倫理的なルールがもともと存在していないのに、あたかも登場人物たちは倫理的なルールで行動しているようなみせかけがところどころでなされています。実際にあるのは暴力と無責任な怒りの応酬だけですが、それを非常に雑な仕方で道徳的な苦悩とか道徳的なしばり、それに理性的な考え方で非常に下手なしかた(わざとのように)まとわれているのです。

 『デビルマン』の作品世界のなかにのめり込むと小学校くらいの子供だとイチコロで価値観が崩壊してしまうかもしれません。なにせ私自身が小学校の5,6年生のころに読んだときにひとつの世界観として私の心のなかに定着してしまいましたから。どこかがおかしいのですがどこがおかしいの指摘できないので、その作品に浸透しているものの見方を受け入れてしまうのです。

 ある意味、私の心のなか怒りと怒りのあとのことは一切知らないという無責任さがそのままこの作品のなかに表現されていて、自分の心のなかにあったものがそこに表現されているのですから批判できなかったのかもしれません。

 デビルマンの行動原理は、基本的に反倫理的です。非常に恣意的でそのときそのときの衝動で動きますが、自分では道徳的に行動しているように、つまりなんらかの理性的な理由があって行動しているように描かれています。この漫画では、世界が滅びることさえデビルマンにとってはどうでもいいことなのです。

 ただ思春期の子供は、やはり同じような思考傾向をもつような気がします。つまり自分の衝動だけがすべてで世の中がそのために滅んでも構わない、というような極端なところまでいくのが思春期前期の子供の傾向です。しかし、たいていの子供はそういう自分の考えと実際に接触する世界との軋轢から様々なことを学んでいき、この衝動が生のままは実らないことを知っていきます。

 『デビルマン』の世界観はこの外界と接触と軋轢の要素が非常に欠けているように思えます。主要人物があまりにもあっさり惨殺されるシーンなどはとくにそう感じます。

 私にとってこの『デビルマン』という作品は私が思春期に入る頃に大きな影響を受けてまだ完全にはその影響から抜け切れていないのですが、今あらためてこの作品について考えるとまだまだいろいろ洗脳されている点が出てきそうです。

                      

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